2017年10月16日

あの時こっちに導いてもらった

日記(のろけ)。
「あの時そっちを選んでいたら」ということを、人と近しい関係になったり、それが終わったりするたびに、時々思っていた。でも最近は、あの時そっち側に行かないように、かみさまがこっち側に導いてくださっていたんだと、おもうようになった。「その人にとっていちばんいいペースとタイミングで、奇跡にみちびいてくださっている」。続きを読む

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2017年09月02日

5年後、10年後

大学時代の楽器の先輩Nさんが、わたしに、
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2017年07月22日

蓮華の花2

小さいころに
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2017年07月20日

蓮華の花


わたしにしては珍しく、誰にも相談せずに、
一週間ほどで自分で決めた。
自分できめて、そうした。


それを兄に電話をしたら、
おめでとうございます、祝福された。
ナイスチョイスですよ、と。
新しいことを始める時につきまとう不安もきいてもらう。わかりますよ、と。
明るいニュースだ、と彼は言った。ざわざわしなくなりますよ、と。


バリ島でみた、
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日記

珍しく誰にも相談せずに、自分で決めた。
自分できめて、そうした。
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2017年07月19日

舞台を変えた。

去年は私フラフラしていたので、前のそれはいろんな土地から仕事をした。
サンクトペテルブルク、イスタンブール、クラコフ(ポーランド)、リガ(ラトビア)の深夜2時のバスの待合所。
バルト三国横断の長距離移動のバスの中。etc。

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2017年07月18日

日記

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あいたいひとがいるって幸せなことだと思う。

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2017年07月15日

優しい先生

同時通訳のO先生の授業に行っている
自己紹介のときに
わたしはミールの出身です、といったら
「ああ、アズマ先生ね」と仰った。
アズマ先生ご夫妻はそんなに有名なのだ。
それ以降、私には厳しい気がするのはきっと気のせいではないと思う。

いや厳しいというのも失礼な話というか違うのだけれども、
今日も指摘をされた。
「エルとエルの発音、時々ひっくり返りますね、意識してみてください」
そうなのです。つづりも間違えてしまう。
多喜子先生はあんなに怒ってくださったのに、
今となっては指摘してくださるのはO先生だけである残酷さ。


O先生は優しい。ほんとうに優しい。
「単語帳の単語を”何度か”練習してくださいね」
「発音がきれいに言えると、楽しいでしょう」
「何度も何度も、聞いてください。もういやっ!っていうくらい、聞いてください」
このお言葉を多喜子先生だったらこうはおっしゃらない。と思いながら一番前でいつも聞く。




coloro at 23:24|Permalinkロシア語 | ミール

プーンちゃん


大学3回生になるころに、室内楽のサークルを辞めた。
その頃までつき合っていた人は
なぜか凄い勢いで私の事を口説いてきたのだけれども
どうも私は彼の事が好きでなくて
わたしはその頃高校時代の親友を電車の事故で亡くし
すごく情緒不安定だった
そのあと私がフラれて、
わかれたあとすぐに、
その人は同じサークル内の同学年の女の子とつき合いだしていた。
なんだかそういう狭い世界で人間関係がごちゃごちゃすることも、
そういう狭い視野の男も、もうほんとうほんとうに、気持ち悪くていやだった。
早く遠い世界にいきたかった。


大学の委員会みたいなのがやっている、
日本語を教える(?)ボランティアをすることにした。
外国の友達がほしかった。
別科の学生と毎週同じ時限に会って、雑談をしたり、日本語別科の宿題の手伝いをしたりする。
前期と後期に1年間やって、延べ5人ぐらいの留学生を紹介された。
いまでも交友があるのは2人いる。
その時の一人がタイの留学生の、プーンちゃん。
チュラロンコーン大学の学部を出て、こちらの院に入るために、きていた。彼女はそういう秀才の雰囲気をすこしも見せないのだけれども、たぶん相当努力家で優秀なひとなんだと思う。

4月、その委員会の部屋にいったら、
韓国の男性一人、韓国の女性が一人、
プーンちゃん、わたし、タクヤくん
という5人でグループが組まれていた

2,3回はこの5人で会っていたのだけれども
プーンちゃんが全然ついていけてなくて、
いつもニコニコしているだけだった。プーンちゃんは純粋で、笑顔がステキで、美人だった。
一人称の事を「わたくしは」といつも言った。


1か月後ぐらいに委員会の人(といってもこれも学生)に言われた
グループを、わけましょうか

韓国の男性一人、韓国の女性が一人と、経済学部のタクヤくん
プーンちゃんと、わたし。
それで、グループはふたつにわかれた。

タクヤくんはその日授業か就活のと都合できてなくて、
その夜電話があって、委員会の人になんていわれたの?と
きかれたので私はそのように答えた。
それっきりタクヤくんには会っていない。
1年後ぐらいにカノジョらしき人と手をつないて東門の前を歩いているのを見かけた。

グループをわけたあと、正門から喫茶店に私と二人で向かうプーンちゃんはなんだか嬉しそうだった。
それから私は毎週プーンちゃんにあうようになった。



当時(グループを分けた韓国人留学生たちと比べて)
彼女はなんであんなにも日本語がしゃべれなかったんだろうとおもっていたのだけれども、
自分がロシア語を勉強するようになったいまならわかる。


(2005/夏)

coloro at 23:02|Permalink大学時代 | 外国語

2017年07月01日

こぐまちゃんのむしぱん

しろくまちゃん:「こぐまちゃん、こぐまちゃんのお皿には、どうしてパンケーキがないの?」
こぐまちゃん:「しろくまちゃんが2枚ともたべちゃったからだよ」

ナレーター:あらあらしろくまちゃんたら、どうしましょう。
しろくまちゃん:「そうだ、二人でむしパンを作ればいいんだわ」
こぐまちゃん:「ホットケーキの粉から、むしパンなんてできるの?」

ナレーター:そうです、ホットケーキの粉から、むしパンをつくることができるのです。しろくまちゃん、よく知っていますね。

こぐまちゃん:「さぁ、できたね。」
しろくまちゃん:「こぐまちゃん、あたしのお皿には、どうしてむしパンがないの?」

こぐまちゃん:「ぼくが、さっきあじみのためにたべちゃったからだよ」

ナレーター:あらたいへん。 しろくまちゃんのおさらにはパンケーキの食べかすと残ったメープルシロップ。 こぐまちゃんのお皿にはほかほかのむしパン。 これではとっくみあいのけんかになってしまいます。

○○○くまちゃん:「ばしっ。」
×××くまちゃん:「きゃーっ。」 

こぐまちゃんはことりと倒れて、その大きな頭はほかほかのむしぱんの上へ。

むしぱん:「ぐちゃっ。」
しろくまちゃん:「きゃーっ。」

ナレーター:あらあら。どうしましょう。むしぱんはまぁるくきれいにつぶれて、中からあんこがはみ出しています。

しろくまちゃん:「どうしてむしぱんなのにあんこが出てくるの?」
こぐまちゃん:(あたまをさすりつつ)「ぼくにもよくわからない。」

ナレーター:そこへお父さんのおおぐまやまさんがやってきました。
おおぐまやま:「これふたりとも。なかよくわけられないのなら おとうさんがたべちゃうぞ。」

おおぐまやま:「ぱくっ。」
こぐまちゃん、しろくまちゃん:「きゃーっ。」

ナレーター:なんていうことでしょう。こぐまちゃんもしろくまちゃんも、どこからともなくハンカチをとりだしておいおいなきだしてしまいました。

こぐまちゃん、しろくまちゃん:「あーん」

ナレーター:そこへおかあさんのしろひめぐまさんがやってきました。
しろひめぐま:「あらあらおおぐまやまさんたら。そのおおきなお口がステキ。」
おおぐまやま:「そうだろうそうだろう」

こぐまちゃん:「あーん」
しろくまちゃん:「かえる」
こぐまちゃん:「まってー」
(2006/1/22)

coloro at 21:40|Permalinkこぐま・しろくま 

2017年06月01日

日記/タイ語 審姐餮豎惺

2006年の春学期(だったと思う)にタイ語の学校に行っていた

受講生は変な人たちだった。
唯一わたしだけ、大学生で、あとは学校をもう卒業した人か、社会人の人だった。
その学校は中卒以上だったら、だれでも入れた。

日本人の男性の先生は国立大学の先生で、東南アジア人みたいな風貌をしていた。真っ黒な顔をしていた。
ネイティブの先生は女性で、だんなさんは日本人らしく、苗字に「桃栗三年柿八年」のどれかの字が入っていた。

某自動車会社の人。学校のある駅前に、そのひとの会社はあった。
「ヤマダ」という名前の人で、
全部子音+母音アの音がつくひとだったので
初級で母音と子音をおぼえているわたしたちには
その人の名前はよく見本で黒板にかかれた。

よくわたしにセクハラのメールをよこしていた。(なんで自分のメールアドレスをその人に教えたのかももう思い出せない)
「○○さん(まともなクラスメイト)と俺と、どっちがいいのぉ〜?」ってメールの最後にかいてあった。このひとはタイに出張にいくたびにこういう態度をタイの女の子たちにするのだろうか、そうしたらなんだかいやだなあ。とおもった。

なんだかちょっと気持ちを病んで、
休職中か求職中か、なにかのひと。20代の後半ぐらいか30ぐらい。
当時21か22歳だったわたしにはその年齢がとても大人に見えたけれども
一番としが近くでまともにみえる人だった。
この学校に申し込むと、附属の大学の図書館が使えるので便利だ。と、
授業は18時からなのだけれども、もう16時ぐらいにはいらしているのをキャンパスでみかけた。
そういう事情はしっていたけれども、
おとななのにこの時間に学校にいるのはなんだか奇妙に映った。

もうひとり、まともなそうなひとがいた。社会人の男性。

あとはいつも「真っ黒」なスーツをきた、顔色の悪い人。
葬儀屋。そのともだちの金のネックレス、ちょっと普通のサラリーマンはしないだろう、じゃらっとしたものをしたおじさん。ふたりはいつもセットですわる。 
(2006春)

coloro at 12:30|Permalink外国語 

日記/タイ語のクラス◆審姐餮豎惺

日記。
語学の社会人クラスに毎回、黒い長めの髪をしていて
ほとんど毎回、真っ白なYシャツに真っ黒のスーツ上下を着てくるおじさんがいる。
たいていネクタイははずしている。今日は青色のシャツだったが。
ちょっと顔色が悪いけれどわりとにこやか。私みたいな小娘にもちゃんとあいさつをしてくれる。
小さな二人席の隣に座る、友達のおじさんはピンクのYシャツに金(茶)髪。
ふたりは妙なアンバランス。
向かいの席の山田君(推定30)の話に出てきて知ったが、
前者の彼は葬儀サービスの方らしい。そこで私はなるほど。と思い、なぜかトルストイの『人にはたくさんの土地が必要か』で日が沈むまで歩き続けた彼(パナトーム、だっけ。そんな感じの名前の彼)が前夜にみた夢を思い出した。ゼミ合宿で勉強していた資本主義と葬儀産業の知識ではなく。

コンビニでトイレを借りたらコクローチちゃんがいた。
私のサンダルの足にまとわりつくので足に上らないように無言でひょいひょいとよける。
さささっと和式のトイレを上って、TOTOの陶器のふちのところに乗ったと思ったら
6本の足をすべらせてあれよあれよというまに水流にのまれていった。
私が殺したわけではないがなんとなく、いやとても哀しい。

(2006/7/11)

coloro at 12:30|Permalink外国語 

2017年05月29日

恩師と


ロシア語の恩師とお茶をご一緒した。
いろんな話をしたけれども、用件(?)はどうもわたしも次出版される本の中に登場人物として出るのでよろしく。という趣旨だったようだ。
『えっ わたしもでるんですか?』
『もちろんですとも、覚悟しておいてね。』
カトリクン、ハルカサンとカタカナで出すそうだ。
私たちがあの幻の学校の、最後の証人だそう。
先生の連載はこちら
http://www.gendaishokan.co.jp


話の中で先生は『僕は(あの学校のおかげで)外国語の勉強方法がわかってしまったんですね。』と仰った。


ちなみにわたしもどうしてそんなに(ロシア語の)発音いいんですか、
と外国語学校のほうで毎週聞かれるのだけれども、
これはペテルブルクに住んでいたからは全く関係なくて、代々木の語学学校Mにかよっていたからです。と答えている。
そうしたらそれはどこにあるのですか、と聞かれるのでこのMはもうありません、と必ず答える。


代々木の語学学校Mの教授法は聞かれれば別に隠すことでもないのでいくらでも答えるのだけれども、普通はの回答をすると妙に納得するのでそれ以上わたしもわざわざ話さない。


ちなみに最近、諸事情で毎週自分のロシア語を録音するという恐ろしい作業をやっているのだけれども、自分のウダレーニエが弱すぎでかなしくなる。

(2017/05/29)

coloro at 22:49|Permalinkミール | ロシア語

2017年01月27日

ずっとずっと、そうしたかった。わたしにとっての外国語のこと。

わたしが東京にいる理由。
というのを最近よく考える。

そのひとはもうすぐ発つ、
と言っていた。
成田空港のHPをみると、
モスクワ経由ローマ行きとあったので、
この便のことだとおもう。

不思議な形の自転車に乗って、
「じゃあまた、そのうちに。」
といって、わたしたちは別れた。

たぶん来月の今頃にはまた連絡をくださるとおもう。
あるいはわたしから連絡すると思う。
「東京、まだちょっと、くるしい。」
「でも、ここに住むんでしょ。」
このひとはじぶんの場所はじぶんできめていいということをいつもおもいださせてくれる。

わたしが東京にいる理由。
というのを最近よく考える。
わたしはおいしいお魚が食べられないと生きていけないと思う。
実家があること、家族がいること。

便利が半分、不都合半分。
どこにいてもそうだろう。

最近、日本語と外国語両方を勉強しなければならない。と痛いほどに思う。

先日、先輩Tさんにとある文書のファックスを「これ読める?」と見せられたのだけれど、わたしそういうの一切読んだことがなくて、全然わからなくて、
どうしようかと思った。
訳してくれたのだけれど、聞いてみたら内容はとっても簡単だった。
別の試験直後の話で、
わたしは頭の中が日本史になっていて、その分野の装飾とか手紙で使われる表現を知らなかっただけみたいだ。

それで家に帰って、その日は死んだように眠り、
数日後図書館でその分野についてのテキストを取り寄せた(それは区立図書館とはまた別の、保存庫というところにあった)。

ケンタッキーでウーロン茶をのみながらそれを昨日ぱらぱらひっくり返してみたら、
語学の才能云々ではなくその表現を知っているからないか、ただそれだけである、ということがわかった。
恋い焦がれていた外国語はわたしにも平等に開かれている。

なお外国語、とりわけロシア語の勉強をつづける意味みたいなのを最近かんがえていたのだけれど、
でもやっぱり私のツイッターの半分以上はロシア語またはロシア(語)、
外国語の関係者のつぶやきで、
そして兄さんが、「日本語だけで情報を取って生きるのはもはや危険」というのを以前友人の女子大学生に話していたのを思い出して、
そしてやっぱり帰国後のわたしをささえてくれているのはロシアで知り合った友人たちと、
その美しくて豊穣な視点で、続ける意味とかそういう悠長で高尚な次元ではなく生命危機という意味で海外の視点をとって生きないと危険という、
そもそもの話を、思い出した。
英語はわたしじゃなくてもたくさんのひとがやっている(いろいろあって仕事でもたぶん使うのでやらなければならないのだけれど)。
日本はアメリカ文化圏のなかなので黙っていてもアメリカよりになる。というのを20歳のころの香港行きのキャセイパシフィックで、読んだのを思いだした。
忘れもしない、米原万里さんの本。
英語とロシア語と日本語しかわかんないなんてじぶんはなんて視野が狭いんだとおもう(それでもあんまりわかんないけど)。

師匠とメールをした。
語学の師匠ではなく、わたしを巫女に育ててくれた方である。
「ロシア語はあなたに必要、と云いますか…あなたに求められているものだと思います。」

とおっしゃった。

昨年、ロシアから帰国した直後、わたしは2週間ほど、
実家の自分の部屋を掃除していた。
巨大なゴミ袋4つ分ぐらいは捨てたとおもう。
大学時代のゼミのレジュメも処分した。
10年見返さなかったから今後もほとんど見ないだろうとおもうから。
尊敬する教授の生き方、思考と、記憶は全て頭の中にある。
20代前半の時に使っていた手帳が出てきて、パラパラとめくって見ると、
わたしはずっとずっと、言葉を扱っていきたい、
できれば外国語も扱って生きたい、ということが書いてあった。
ずっとずっと、言葉で食べていきたくて、でもそうする自信がなくて、踏み出す勇気もなくて、才能がある気もなくて、20代の頃のわたしはずっと、悩んでいた。
その何年かぶんの手帳は捨ててしまったのだけれど、
それが確認できただけで掃除をした意味というのはあるようだ。とっておけばよかったかなあ。

でも言葉で生きたい、というメモは私の手帳の中に、本当に当然のように、
まるで手帳の表紙とか紙に印刷された模様のように、書きちらされていた。

その人はいつもと同じく、
風のように去っていった。
庭の梅が咲いた。
写真を撮って、その人に送ろうと思う。
Весна пришла. (春が、来ました。)

2017年01月12日

スジャータの乳粥

ものすごく近場で温泉にはいった。
近場の非日常
そのひとは眉間にしわを寄せたまま、
私が熱くいれてしまった部屋のお風呂にはいって、
お餞別に私が買っておいたハンカチは中身だけとって、
淹れたコーヒーは見向きもせず、
風のように去って行った。

へんなひと。続きを読む

coloro at 22:58|PermalinkOL時代 | すきなひと

2017年01月09日

別れ際

ザイアクカンをかんじる、
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coloro at 23:01|PermalinkOL時代 | すきなひと

2016年12月21日

深呼吸と、冬至のメッセージ

深呼吸の仕方というのをむかし、スポーツをやっているひとに教えてもらった。祖父が死んだとき、泣きながら電話したら運転中の電話越しに教えてくれた。
先週師匠と話していてわかったのが、深呼吸をおろそかにしている人、多い。
そのうちにオラクルカードの扱い方と深呼吸をする会をやろうと思う

coloro at 01:27|Permalink巫女 

2016年12月11日

豆餅と自転車


仕事後だったらあいている、
昨日から明日まで高島屋に出店してるから、
一度荷物を家においてかえって、
22時近くになると思う、と言って、
風の人は自転車で駅前のタリーズに現れた。
初夏にうちまでピアスをもってきてくれたときも、22時近くだった。あのときは白夜が近くて、明るかった。あのときはロシアで、ここは東京。
ロシアも東京でも、彼とは家が近い。育った土地も同じ。
だから彼はいつもうちの近くまで来てくれる。
初夏に会ったときと同じ、革の黒いジャケット。
不思議な形をした自転車をとめて、鍵をかけて、久しぶり、と言われたとたん、私はわんわん泣いた。
どうしたの、一体どうしたのさ、と右の肩でわたしを抱えた
なにかあった?
東京、くるしい。
革の黒いジャケットの胸のなかで、私はわんわん泣いた。
泣ける人がこんなに近くに、いた。

昔さ、一人で外国を色々旅行していて、旅先の紙幣をちょっとずつ残して集めていたのね。でも今思うと無駄な事したな、って。思い出をとっておくより、どんどん行った方がよっぽど楽しい。だから最近は、残してしまうより、使いきってしまうか、乞食にあげちゃう。かつて貯めたお札もね、今は旅行じゃなくて仕事としてどんどんいくから、そこで使っちゃうんだけれど。
7,8年前ぐらいのウクライナの1グリブナ札がね、もう使えないの。なんだこれは、って、むしろとても珍しがられて喜ばれた。リトアニアの紙幣も、次使おうとおもったら、ユーロに変わってた。

昼に連絡をしたら、その日の夜に突然会えることになった。彼はいつもごちそうしてくださるか、多めに払ってくれるので、お土産になにを持っていこう、と昼間に駅前を逡巡していた。伊勢屋の若旦那に甘くないお菓子を聞いて、悩む。落雁、ゼリー系、豆餅。
結局、豆餅をかった。この店はねりきりがとても美しいのだけれど、彼は甘いものを食べない。
豆餅?へええ。この近くの店のなの?
と彼は袋をめずらしそうに眺めた。そう、待ち合わせした場所の、隣の隣ぐらいの和菓子屋さん。
明日、食べるよ。
私がロシアで使い残した21ルーブルを、ひきとってもらった。来週また、ロシアに戻るという。

ベルギーのビールと和歌山のビールをごちそうになり、カードで払ってくれて、帰り、ドアを開けてくれて、またね、と言って、店の前で別れた
おヨメに行った21ルーブル。幸せになあれ。

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アンティークのネックレス

アンティークのネックレスを買った。
はじめてみたとき、あまりに美しくて泣きそうになった。
きてくれてありがとう。

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