2005年06月

2005年06月30日

たいへんたいへん

今日は珍しく二限に遅刻しないで学校に行って、
でも
授業中ずっと手紙を書いていた
ルーズリーフに4枚、
とりとめもなく
でもぎっしりと
おそらくあのときあの状態じゃなきゃかけない文章で
おそらく同じものは私にも二度とかけない
書きながら涙が出てきて
ただの思い出ばなしなのに
べつのはなしをかこうとおもう
ひょっとしてなにもかも先生はおみとおしだったか
ハンカチをあてたあたしはこれからどうしようか

パソコンでうちこむ文字と
下手でも書き続けた文字と
あああたしはやっぱり自分で書くほうがいい
つたわらなくてもいい
あたしが伝えたいと思っているということをうけとめてもらえるならば

渡すとしても便箋にもう一度おこすだろうから
これは私の手元に残るだろう

ルーズリーフに綴られた手紙は
さすがに女子高生っぽいので
渡せない
でもなんか
これをきれいな紙に書き写すことで
失われる何か、
がある気がする

消えて行ったなにかの存在と消えて行ったという事実に
気づいたのは私と、手紙を受け取るだろうあのひとと、
ひょっとして誰も気づかないかもしれないけれど

何かがふうっ、と姿を消して、
それでもちゃんと世界はまわる。

母国語じゃなきゃ、だめだった
母国語でも、だめだった
言語化したことで失われた何かがある
それを取り戻したいならば
沈黙を選ぶべきか
なにも言わないで
じっとそこにいる、
そんなあたしは
なにをつたえる?

おんがくも
絵も
劇も
ことばにも

完全はない
あたしはどうやって
つたえればいい?





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2005年06月29日

はてながみっつ


LIFE is ・・・

「世界で一番君が好き?』という平井堅の曲があったけど
これなんで?がつくんだろう?


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2005年06月28日

原稿

書けない。

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あふぅ

むかし
まだ携帯もパソコンもなかったころ
あたしはなにをして時間を過ごしていたんだろうかと思う
部屋の隅にちぢこまって本を読んでたり
おりがみしたり
なんか縫ったり
なんか作ったり
手紙書いたり
ぼんやりしたり
おんがくきいたり
くうっ、って寝たり
便利すぎる時代だな
高校生のころは
誰かへの電話はよる10時までだった


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一日乗車券

bus いまをいきること。
あしたをゆめみること。
みらいをのぞむこと。









いちにちじょうしゃけん
知らないまちを
バスでめぐる。
夜の八時が終バスで
とってもちいさなシャトルバス。
あたりはまっくら
乗客はあたしのほかに年上の女性がふたり
おうちにかえるところなのだろう
あたしは?
これからどこへゆく?
それでもさみしくなんかならない
ここは東京の真ん中で
はじめてのばしょだけど
ちゃんとバスは、あたしの知っている駅に着いてくれたし
あたしには
かえるばしょがあるから。


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2005年06月27日

You are the most...

 


  < 潔いと言われれば、そうなのかもしれません。 
   けれど、私は自分の人生において
   その時何が一番大切なのか知っていたんですね。
   それを貫くためには、たとえ愛着があっても、
   古くて要らなくなった何かを手放さなければならない。>

                          武田久美子

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2005年06月26日

味噌汁作り

今朝、
味噌を出して、
溶いてるときの姿勢、
背中のまるめ具合、
スプーンじゃなくて菜箸使って、
あたし
自分のおばあちゃんとそっくり。


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今喰いバク

冷房が当たらないように避けてもらって
夕日のまぶしさにサングラスをもらって
音楽落としてもらって
このまま眠りに落ちたらしあわせだろうな

向き合うことって今をいきることなのかもしれない、
消えいりそうな意識でそうおもう


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2005年06月25日

ぱふぱふ

アフリカ大陸からの大使がたくさん学校にいらした。
なんか勉強会みたいなの。
こういうのを「しんぽじうむ」というらしい。
飛び込み出席した。
英語はむつかしかったけれど
そこに生まれた空気というか、熱気というか。
これは好きだと思った。

驚くべきことに
生徒よりアフリカンアンバサダーの数のほうが多かった(30人近く)。
あたしも昨日キャンパスの事務室を駆けずり回って今日の情報集めてたくらいで、事前に開催キャンパス内での広告もアナウンスも一切なしに行うなんていい度胸だと思う。モッタイナイ。×30

そして私は夕方からサークルの話し合いとやらがあるので
最後までいられなかった。

アフリカとサークルどっちが大事?

いや今日に限ってはアフリカだと思います。

だったら最後までいればいいじゃん。

いやでもなんか行かないとあとが面倒だし
別に私が行かなくてもコトは解決するはずなんですけど、

んじゃあなんで行くの?

・・・。

なんか抗えない力ってゆーか。

なんでしょうね



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2005年06月24日

そうして何か生まれる。




自分によって生み出された空気じゃなくて
他者に介入し介入された結果生まれた空気。
向き合う以上
自分の深層は予想以上に響く。


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新装開店

もうすぐこのページ初めて一年が経つ。
友達に教えてもらってブログというものの存在を知った。

なんか
昨年の10月ぐらいから今年の4月ぐらいまで
すっごい運気というかテンションというか
低かった気がする。
過ぎ去ってみてそう、感じる。

自分で読み返してみて、
去年の7月から9月までの文章が一番すき。
今書いている文章は文字が多いわりに
そこに生み出される世界が少ない気がする。
あのころは梅雨のウツと今年の比にならず闘っていたとはいっても
なんだかんだで平穏だった。
自分のために書きはじめて、
そしてあのころは100パーセント、
自分のために自分の文章を書いていた。




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せいぎのみかた。

互いのその強すぎる目ヂカラだけであいさつ友達になった黄レンジャー君に
生協でなぜかおつかれさま、と言われた。
彼は正義の味方みたいな、機関車トーマスにダイエットサプリメントを与えてスマートにしたみたいな、子どもたちのヒーローみたいな。

未だに二人の間で交わされる言葉はオハヨウとオツカレサマの二種類だけで、でも観察結果によるとかなりのshyboyらしいし二言以上喋るとあたしの本性がばれるので、やっぱりあと半年くらい経ってもオハヨウとオツカレサマ以上の友達にはなっていないと思う。


あたしは目ヂカラでアジア人を引き寄せるらしい。
二時限に遅刻しているのもかまわずフラフラと校舎に入ろうとしたら
一見日本人の女の子に英語で話しかけられた。
そのままデートに引きずりこむ。



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じぇりくるキャッツ


Cats (2pc)

思いがけず時間ができたので
図書館にこもって映画を見た。

アフリカ風景の映像だと思って借りたら
亡命したユダヤ系家族がアフリカに住む物語だった。
なにげにスワヒリ語だった。

なんかねー、視野がすこうし広がってすっきりした。

大学の図書館なのにCATSのビデオまで置いてあったので、
迷うことなく見る。
凄い。やっぱオリジナルは迫力違うー◎
去年の冬に一度言ったけど
なんか音楽が録音だったから
なんとなーく物足りなかったんだ。
大音量でがんがん聴いた。ビデオだと俳優さんたちに近づけるから、
声量すごいのがさらにしっかり聞こえる。

でもでも、
なんかアフリカの壮大な環境で抗うことなく生きるちっぽけな人間たち、
みたいな映画を見た直後だったから
このミュージカルも人間の創造の産物である、ってことを
もうひとりのあたしが時折つぶやいていて、
なんか醒めてしまって結局キャッツの世界に入り込むことはできなかった。
もういっかい見に行こう。



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やっぱ

ケータイ嫌い。べんりすぎるよ。
はやく眠って明日をよぼう。


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ぱふっ

駅で改札に向かっていたら

引退して院に行ったバイオリンの先輩がふたぁりセットであるいていた。

とことこ走っていって、

二言の挨拶する。

二人そろっておおっ、って言ってくださる

ただそれだけの瞬間が嬉しくて。

好きなんだ、この人たち。

思えば私は

こんにちはの一言を言うために

走ろうと思うだけ、好きな人がいる。



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ふぁ

こんなさみしい娘のどこがいいの?とよくきくけれど

いつもあんまちゃんとしたこたえがかえってこない。

あしたは連絡とれなくなるかもだけど、ごめんね、

っていうそのひとはとてもいい仲間に囲まれているのだと思う

それでいいのかなぁ、っとおもった。

電話を切るのにものすごい勇気がいる。



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2005年06月23日

選択的緊張感

けっこうしらない、自分のこと。
というわけで語学クラスとそのコンパをサボって
ひとりでご飯(pizza☆)をたべつつ
変な本をすすめてみた。(クラコンは全生徒5人中3人しか集まらなかったので中止になったらしい)
じぶんのすきなもの、すきなひと、えいきょうをうけたひと、来年までにしたいこと、5年後にどうしたいか、ゆめはなんでしょう、なにをしているときがしあわせ?
私にとっての成功とは。自分にとっての幸せとは。

こういう質問が本の端々に並んでいて、
自分の言葉で書いていくの。
意外にしらなかった。好きな食べ物とか飲み物とか本ですら。

というわけで

すきな食べもの→みたらしだんご プロシュートとチーズのピザ
のみもの→緊張感のあるシナモンミルクティー。
緊張感、って大事なんだ。

三人姉妹の末っ子ということもあり、
洋服はたいていお下がりで済ませているので
自分で責任もって(っていうといいすぎだけど)自分の選択したモノに囲まれて生きていない。化粧品も、ミュールも、スカートも、なんとなく全体的に他人任せな緩さが自分にはある気がする。

部室で昨日は美人に囲まれていて、
長女で素敵な緊張感の持ち主であるチェロ弾きたちが美人であるワケはそこにある、と思ったのだ。

彼女たちみたいな緊張的美しさは必要なの?と聞かれたけれど、
たしかにそうである必要は必ずしもないと思う。
でもじぶんがじぶんらしく生活しているために、あるていどこれはスキとか苦手とかいえる自分を持っていることって結構大事じゃないかなぁ、って。


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2005年06月20日

蝸牛考

PCM_05_06_19_0004.jpgあうんの呼吸とはよく言ったもので、
無言であることも会話のうちだと考えます。しかし現代は騒がしすぎるし、オカネ払えば会わなくとも声を簡単に聞くことのできる(これを会話とは呼ばない)時代だし、なかなか日常生活で私と無言の会話をしにきてくれるヒトはいません。(養子のサボテンと魚くらい)。哀しいですね。

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2005年06月19日

あ、うん

PCM_05_06_19_0006.jpg 存在意義は???

熱さがってー

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ぷふぅ




ルソーの『エミール』、
グループワークの材料として明日は私がレジュメを作成して90分しゃべりたおさなければなりません。おなじグループには哲学科とかの学生もいるのでものすごい恐怖です。速読ではないですが本を読むのは速い方なのに、他人から教材として与えられた本は自分でもびっくりするぐらい読めません。グループの中でも私は毎週ものすごい落ちこぼれ気分を繰り返しています。彼らにできてわたしにはなぜできないの?と自分を責めることもあるけれど、きっと私ができて彼らにはできないこともあるはずだと自分に言い聞かせてなんとかポンコツレジュメをつくります。


いつも他人に対して何かを開いている状態をキープするのは、
とても大変なことだと思います。
携帯電話の電源をずっとつけていることからはじまって、
求められた時に返事をしなければならないとき。
自分にとっては解決したつもりでも、
話さなければ相手に伝わらない、話さなければ相手に対する拒絶を意味してしまうこともあります。
電話やメールをくれる人がいるだけ、問題を自分に対して投げかけてくれる相手がいるだけ、いいという考え方もありますし
あるいはそんなものほっぽって自分をそっとしておいて欲しいという考え方もあります。

自宅のベッドで死ぬことができなくなった以上、
今の時代は多くの愛情に囲まれて生まれて、
たった一人で逝かなければならない運命をたどる人が多いと思います。
いつも夜中に爪を切っている私は自分の親をそういう運命にしてしまうかもしれないし、あるいは私もそうなるかもしれません。


若い時にどれだけの経験を積んだかにより
人の度量は決まるとときどき言われます。
何事に対しても用心深いあたしは(時々一人でバルセロナに飛んで行ったりしたけど)それだけの容量のおとなになってしまうのかな、と時々心配になります。私の於かれている環境からすると考えられないくらいいろんな人とわいわいと語ったり、なんてことをして学生時代を過ごす人もいるし、普段は限られた人としか話さずじっと一人で過ごす人もいます。感受性の強いこの時代をどう生きても私たちはおとなにならなければならないし、あるいはいつか人の親にならなければならない日もくるかもしれません。

とても心の狭い大人と接したことがあります。当時の私の倍も生きているだろう年で、市民オーケストラの団長をしていて。
彼の元では音楽できない、と判断した私はある日、「あなたとはもうこれ以上音楽づくりをしたくありません」という代わりに「勉強をしたいのでオーケストラをやめさせてください」といいました。けれど他に言い方があるだろうのに、彼はあたしを傷つけるような返事しかできませんでした。あるいは私みたいな小娘に思いやりをかけられたことが情けなかったのかもしれません。彼の奥さんのおなかには赤ちゃんがいて、私が楽団をやめた後無事に生まれたと聞きました。あたらしい命がうまれたというのに、なんだか凄く悲しくてたまりませんでした。
私は彼と同じようなおとなにはなりたくないけれど、他人を幸せにできる人になれるかは自信がありません。そんなものは結果論であってひょっとすると他人を幸せにするという発想自体、オコガマシイものかもしれないけれど。

将来に対するぼんやりとした不安、という言葉はなにも芥川龍之介が辞世として遺したから有名なのではなくて、多くの人にとって的を射たことばであるからだと思います(チョット意味が違うけど)。他人と喋ってばかりいる人は、他人の知識を幅広く知ったり愛情を交わすよろこびをしっているかもしれません。けれど一人の自分という人間と対話をすることを知らなければそれとおなじものを自分にも他人にも、再生産することはできないだろうと、あまり多くの人とは語らない私は負けおしみ的に考えます。龍之介の指摘したフヘンテキ不安に打ち勝つための手段として、すべてを閉じて孤独に戻る必要があると自分に言い聞かせ、今日はここまで。



coloro at 19:49|PermalinkComments(0)TrackBack(0)