2006年07月

体の大部分が壊死しているみたいだ。右のあたまの後ろのほうの一部分だけで、あたしは思考して試験勉強してテストの答案をつくってレポートを書いて人に会ってこれを書いている。みたい。
雨のにおいはある年の夏の夜を思い出す
あたしがあたしであったころ。
いつのまにか泣くために泣くことができなかった。
いつもなにかしらの思惑とかが混じってしまってそんな自分が気持ち悪い。
悲しいときにはわんわん泣けた幼稚園のころに戻りたい。
そうやって泣けるように、いつになったらなれるのか。


いわゆる絶交宣言、というのを4つくらい受け取ったことがある。
思い出すのもわずらわしいが今更驚かなかったのでそのうちの2通は破って捨てた。
そのうちの1通は消した。そのうちの一人は無言だったけどお互いそういうものであるとあたまでは理解していた。
そのうちの1人は切ったら切れる縁だったと思う。そんな感じ。
そのうちの3人はたぶんあちらは死ぬまで忘れないんじゃないかと思う。
切らなきゃ立っていられなかったのだと思う。切られる対象であることで私は自分の存在がその人が立つために必要であったことを認識する。
切るからかえって私の記憶がその人に刻み込まれるのだ。わかってないな。
そこまで覚めて見下すからまたそういうことを言われるのだ。
それでもまたやってくるのはいったいなぜでしょう。か。人間ってわからん。
抱かれていてもわからないものはわからない。
明日の試験が終わったら台湾に行きたい。スコール。台風。
南の雨に打たれたら、あたしはきっとまた泣ける。

先日、7歳のときに頂いた博多帯の半帯をはじめてつかった。箪笥に仕舞ったままで行方不明になっていたやつだ。
すごい硬さで、締めるのにひとりでじたばたする。見かけた人は皆リボン結びだったので、別の四角いのにしてみるけれど結局リボンになった。
締め上げたら息が詰まりそうな緊張感。紅色と黄色の蝶が舞う。
金魚が似合うという青と白の浴衣。小さなしぼりがたくさんついた帯。
空間と、生暖かさの中の涼しい風と、時折ぽつぽつふる雨と、体温が、とてもぜいたくだった。

いちいちもんくをいわず、しゃっきり生きるのって
体力がいるなぁとおもう。
古びたセロリと胡瓜のあいのこみたいだ。

『31歳ガン漂流』、帯の違和感のその後。


31歳ガン漂流


[一巻目の帯についてる、宮藤官九郎のコメント。
私クドカンとは相容れないものがあると思った。
というか、クドカンが言いたかったことはもっと他にあるんかもしれないけれど
本の帯にするために活字にして、文字をあえてでっかくしていった
その編集者の無神経さが我慢できないっていうか。売れりゃいいっていう姿勢を作り出す出版資本主義にすごい疑問。そりゃ売れなきゃ喰っていけないけどさ!]
(2005.8.11)

やっとわかった気がするので書いておこうと思う。
問題は、「この帯をクドカンが依頼されたときに奥山さんはまだ生きていて、宮藤氏の中から彼の死が現実のものになるという覚悟がまったく欠落していた、」ということかもしれない。
そうでなければ宮藤氏は後輩の死もあっさりドラマとして対象化しきった人物、ということになる。あるいは死が問題なのではなく、書ききったことが重要なのか。
嘆き悲しむほどのことではないのだろうか。
わからん。

私は奥山さんがなくなったことを知ってからこの本に会って、この帯を見た。だから変なんだ。そう思いたい。

暇な人、最期まで読んで。
すごいから!

まわりのひとびとがタコに見える。
でも冷麺とさくらんぼがおいしかったからいいや。
机につっぷしてねよう

日記。
語学の社会人クラスに毎回、黒い長めの髪をしていて
ほとんど毎回、真っ白なYシャツに真っ黒のスーツ上下を着てくるおじさんがいる。
たいていネクタイははずしている。今日は青色のシャツだったが。
ちょっと顔色が悪いけれどわりとにこやか。私みたいな小娘にもちゃんとあいさつをしてくれる。
小さな二人席の隣に座る、友達のおじさんはピンクのYシャツに金(茶)髪。
ふたりは妙なアンバランス。
向かいの席の山田君(推定30)の話に出てきて知ったが、
前者の彼は葬儀サービスの方らしい。そこで私はなるほど。と思い、なぜかトルストイの『人にはたくさんの土地が必要か』で日が沈むまで歩き続けた彼(パナトーム、だっけ。そんな感じの名前の彼)が前夜にみた夢を思い出した。ゼミ合宿で勉強していた資本主義と葬儀産業の知識ではなく。

コンビニでトイレを借りたらコクローチちゃんがいた。
私のサンダルの足にまとわりつくので足に上らないように無言でひょいひょいとよける。
さささっと和式のトイレを上って、TOTOの陶器のふちのところに乗ったと思ったら
6本の足をすべらせてあれよあれよというまに水流にのまれていった。
私が殺したわけではないがなんとなく、いやとても哀しい。

削ぎ落とすこと。
一日四万人の死に目をつぶること。
関わり方。
世界と関わる?
いや、そこに存在する
方法ではなくて在ること。

近くなるほど遠くなった。

夏は嫌いだ。
どの季節よりも沢山の記憶が絡みついているから。
去年とか、去年とか。
私の記憶の量と定着具合
夏≧秋>春>冬
だから春が一番好き
いまのところやっぱり。
関係性とか物とか周囲とか、求めることははやくやめよう
記憶が吹き上がる。ねっとりした暑さの中に。
記憶を超える夏をつくるか、それとも逃げるか、それともただただ、私が私で居ればいいのか。
夏は嫌いだ。だいきらい。
だからそうなる原因から、離れようと思う。

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