2016年08月



フロントのお兄さんから電話がかかってきた
若いだろうのに牧師のようなおだやかな風貌のひと
ポーランド語わからないので挨拶だけしてわたわたしていたらなぜかロシア語に切り替えられた
私とお兄さんはフロントでは英語で話す
どっちにしろ頭は真っ白なのだがпо русскиときたのでだーとこたえて黙って聞いていたら
用件は月末の会計締めだから宿代の8月分のうちのこり二日分を払ってほしいとのこと
(チェックアウト時でいいといわれていた)
бухгалтерがなんとか、、
なんで私がロシア語わかるってしってるんだろう。。。
フロントにいくと、彼はやっぱり英語の人にもどっていて、
わたしはロシア語、
彼は英語で精算した
(一回ロシア語話すと英語に切り替えられないわたし)
それで清掃の人とかも用事があって私はロシア語でお願いするのだけど
返事が英語できたりする
つまり私が言っていることは理解できてるということで
これってすごいことだとおもう
---買った電球が壊れているからとりかえてほしいとか、ロシア語の交渉力なんてその程度ですよ
---そりゃあさっき買ったこの電球が素晴らしくてカンゲキしたってわざわざ言いに来たんじゃないことくらい、店の人もわかるさ(K先生)

ーーー

ホルモンのバランスがよくないらしく久しぶりに20代の頃のようなdepressed、無価値感に襲われていた
一週間ほどがまんしてながめていたけれど
駅に出たついでにハーブ系の安定剤を買ってきた。
英語またはロシア語で症状と欲しい薬の効果を説明するのだが、間違って鼻炎薬とか買っても困る
ロシア語では説明出来なかった。単語ってだいじ。
ところで
depress-他動詞にedをつけるのを読んで
-сяの意味がちょっとわかった
あと生理用品をみる
ドラッグストアで手に入るものは感じない女を作る元凶だとおもうのでつかいたくない。(受け取り下手の女性ができあがる一因はこれだとおもう)
旅先なのでどうしようかと思っていたのだけど第三の案があった。生々しいので詳細は割愛するが日本の会社の製品もあり、やっぱり機能性能が出来すぎているというかお節介というか無駄というか(言い過ぎ)。

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店は10-19時
土曜日は10-14時
19時前になるとお勤めに出ていただろう男性や若い女性が明日のパンを買いに来る
教会で祈る時間もある
それでも物乞いのひとが日本やロシアよりよっぽど少ないのはなんでだろう

ポーランドのとある駅前のバス停に座っていた
お年寄りの集団が歩いて通りすぎた
町内会のみんなで遠出にきました、という雰囲気

面白かったのはパートナーできている人たちは

当然のように手をつないでいること。
片方の手は杖をついていても
もう片方の手は必ずパートナーの手か腕。
英語のツアーに参加したときもそうだった
傍目に美なカップルでも、そうでないカップル(笑)でも、カップルは手をつなぐ。
一回つないだら離さないんじゃないか、という感じ
小学校とかどこかで教えられるのだろうか。
だいじな人とは手をつなぎましょう、って。
アウシュビッツの英語ツアーに行った友達が言っていた。
同じグループに老夫婦がいて
ガイドさんの解説が恐ろしい内容だったりすると、
おばあちゃんは、
「まあ、こわい!!」
って感じで隣のおじいちゃんの腕に、ぎゅうっとしがみつくんだよね。

パートナーって、自分のように大事にするひと。
他人の目を気にして手を解いてたら、
きみのことより他人の目のほうがだいじなんだよって意思表示
それってもったいないかも。

愚痴をきいた
愚痴っていうか、
今日、こういうことがあった
って言う報告かな、このひとの場合
私が思っているほどその出来事について気にしてないと思う

今日、こういうことがあった。
迷わずこの子にはなそうと
かちっとじぶんにベクトルが向いていることに、ちょっとほっとする。
くつろいでかえってね。


ロシア語なんて嫌いだ月間に突入していたのだけど、
若干浮上してきた。
なんで続けようと思うのか自分でもよくわからない。
しいていうなら日本語だけで情報を取るのが危険だと思うからだろうか。英語は私の周りの人が懸命に勉強している。
これ、10年以上前に自分がロシア語に興味を持ちはじめたきっかけとまったく変更ない。
そして今から第三の外国語をはじめるのは多分もっと苦しい。
先日英語の記事も読んで頂戴、と言われたのだけどその日の私はnowとhow のちがいすら認識できなかった。だってそっくりじゃない、形が。

---
(K先生)
アタシがロシア語を好きになって「本気に」勉強を始めたのは、40を過ぎてからでした😅😅😅

■成田空港のひとめぼれ
■アエロフロートに電話する
■死なない程度に息をする日々
■「私が惚れたんです!!!!!」
ーーー

OLを辞めたきっかけは成田空港での、夏の終わりのひとめぼれだった。
2年ほど前まで、OLだった。
おそらく絶対潰れない種類の会社に勤めていた。
先日ロシア語の恩師K先生にお目にかかったところ、「まさかハルカさんが会社を辞めるだなんて、おもっていなかった。」と言われた。「会社を辞めたい辞めたいと言っているのは知っていた。でも本当に辞めるなんて」と。
最近わかったのだがこの恩師はどうも私を実物以上に脳内美化してくださっているところがあり、当時私のことをだいぶコンサバティブな女の子だと思っていらしたような気がする。
ロシアに住んでいると、けっこう情熱的な日本人と知り合う。能動的に来ている人が多いので、もうほんとうに情熱的だったり、センスがよかったり、エネルギッシュだったりする。片想いのロシア美女を追って、会社員をやめて、移住したというひと。フィルハーモニーが好きすぎてロシアに移住してしまった、というひと。
みなさん情熱的だなあ、と感心していたけれど、思い出してみたら自分もきっかけは同じようなものだった。

■成田空港のひとめぼれ
二年前の夏、ちょうど今頃、会社の夏休みを9日間もらって、モスクワに飛んだ。
モスクワに住んでいたミホさんとシェレメチェボ空港で待ち合わせして、
そのままアルメニアの首都エレバンに飛ぼうといっていた。

成田空港でモスクワ行きのアエロフロートにチェックインする。
チェックインカウンターに並ぶ列のその前に40歳ぐらいの男性がいた。
カバンといい、シャツといい、なんだか味がある。

なんとなく声をかけたい気がして、
でも用もないのに声をかける自分は変な女なんじゃないかと思って(今思うと当時の自分も十分変な女だったのだが)、
声をかけそびれたまま、チェックイン。
同じモスクワ行きの飛行機で、二列前に座っていた。
約10時間後、モスクワについて、トランジットの手続きのカウンターで、
質問をするふりをして、やっと声をかけた。
そのままチューリッヒに飛んで、近代建築を見て回るそう。
自分は建築士である、と名乗った。建築士なんて、自分とは別世界、夢みたいな世界の人である。
彼はその日のうちにトランジットで、私はその日はモスクワ泊で、そこでそのまま別れた。
名刺ぐらいもらっておけばよかった。成田空港にいたぐらいだから東京の人かもしれない。そうしたらチューリッヒの話も、建築の話も、聞けたかもしれないのに。どんな人かもわからないのに、そもそも独身かどうかとかもわからないくせに、なぜだかわからないのだけれど、猛烈に後悔した。

■アエロフロートに電話する
アルメニアは美しかった。
その数日後モスクワに戻り、ミホさんに連れていってもらったバレエ「白鳥の湖」は美しすぎて、
幕が上がって一瞬にして涙が溢れた。
しかしやっぱり成田空港事件の後悔は抜けなくて、帰国しても二、三週間自分を責めたと思う。無駄だと分かっているのに、アエロフロートに電話までかけてしまった。そうする以外に閉じた自分を呪わない方法がなかった。あのステキな人のお名前は。アエロフロートの東京オフィスに、ロシア語で話したら、電話の向こうのロシア人のお兄さんは、笑うこともなく結構真剣に話を聞いてくれたのだが、もちろん顧客情報など出してくれるはずがない。
自分のいろんな感情をおし殺して、話してみたいと思った人に声もかけられず、まいにちまいにち、職場ですり鉢のように気を遣って、金魚鉢みたいな執務室で、死なない程度に息をしている自分を責めた。
あの頃は私の6年強のOL時代で一番、職場の人間関係に恵まれていたけれど、それでもいちばん話をしたい上司は薄暗い壁の向こうで、直属の先輩はいい人たちだったが、まいにち忙しかった。
半年後、会社をやめた。
会社の後輩がライスコロッケを抱えてウチまで会いに来てくれて、私が作ったビーフストロガノフをむしゃむしゃ食べながら、よく(安定した会社を)辞める勇気がありましたね、と言っていた。
なぜ安定した会社をやめたのか、他にも自分を動かした要因はその前年からその年にかけて怒涛のように沢山あったのだけれど、直接のきっかけは上述のとおり。

■「私が惚れたんです!!!!!」
私のロシア語の語学学校の恩師、タキコ先生は非常に美しい女性で、20歳上のご自身の恩師と結婚された。
旦那様は非常に雰囲気のある方だったそうで(語学学校の所長なのだけれど、私が学校に通い始めたころは既にお亡くなりになっていた)、タキコ先生はその後、ご自身のご結婚について、「私が惚れたんです!!!!!」とみずから周囲に言い切ったらしい。
先日、この学校の大先輩、第一線の通訳の女性にお目にかかった。
60代半ばだと思うのだが、美しい赤い口紅に、よく似合うハイヒールとミニスカートでいらっしゃる。なぜこの学校の関係者は美女ばかりなのだろうか。

渋谷でお昼をご馳走になりながら、なぜだか私は彼女に真剣に、「できちゃった結婚」を勧められた。語学の習得には終わりがないので、本当にプロを目指すなら、女が冷静に人生設計をしていると、婚期を逃すらしい。勉強はいつでもできます、と。外国語ってなんて恐ろしいんだろう。
そしてもう一つ、アドバイスをいただいた。
あなたはタキコ先生の弟子なんだから、自分が能動的に愛せる人と、一緒になりなさい。
あの日シェレメチェボ空港で、あのお兄さんに名刺をもらっていたら今の私はいないので、それで良かったのかもしれない。
感情を押し殺して生きている時間など、なかったのだ。

今日はことばをめぐるエッセイ。


■親戚の外国語
ロシア語が多少わかる。意を決してロシア語の勉強を始めて結構な年数がたっているのだけれどそのわりにはわからない。

わたしのロシア語の恩師は非常に情熱的で美しく、そしてときに激しいので私はときに泣きながら、語学学校に通っていた。そういう激しい記憶があるので、外国語の学習って人によっては楽しいものかもしれないけれど(小学生の時に通っていた英会話スクールはとてもたのしかった)、わたしの場合、ロシア語に対しては、美しくて苦しい思い出が多い。いまもとても苦しい。通訳、翻訳のたまごのような仕事を時々するのでよく英語と勘違いされるのだが、ロシア語である。最近なんとなく、これを何かしら仕事のきっかけにできるような光が見えてきたような気もするし、その一方でタマゴどころか自分のロシア語についてまだ未確認生命体のような気もするし、やっぱり道は果てしなくとおい。



ポーランドにいた。ポーランドの町の人はポーランド語を話すのだけど、なんとなくロシア語に似ている。

「夏」「くつ」「映画」「通り」「キノコ」「いいですよ」「ダメです」というのがロシア語そっくりの音だ。つづりを見てもわかる。名所旧跡の観光というより、町の文字をぼんやり眺めて萌えているうちに一日が過ぎてしまう。

コンビニみたいな店で店員さんが「ドアを閉めてください」とか叫んでいたりすると、もうそっくりで、ポーランド語が分からなくても理解できる。

ワルシャワの鉄道駅の構内アナウンスで「不審なものがありましたら係員にお知らせください、よい旅を!」とかポーランド語で言っていると、これもなんとなくわかった。



■なんとなくわかりあう
友人のカーチャ(ロシア人女性)がモルドバにバカンスに行っていた。Airbnbで家を借りて、彼女の家族、彼女の友達家族、合計6人で数週間過ごしたそう。

滞在中、彼女はよく、現地の人に町で道をきかれたという。病院はどこですか、とか。病院は彼女の滞在先の隣だったから、彼女も答えられる質問だった。


もちろん彼女もモルドバの言葉はわからないのだけれど、病院という単語はなんとなくわかるらしいのでカーチャはロシア語で答える。そうすると、なんとなく、音が似ているので、モルドバ人の相手の人も理解し、その場が解決するそうだ。

ポーランドの町の若い人は英語がわかる人が多い。年配の方はロシア語がわかる人が多いようだ。ホステルのフロントのお姉さんはとてもとても親切なひとだった。しかしポーランド語話者であり、ロシア語も英語もあまりわからない様子だったけれど、わからないなりに彼女は多少ロシア語も英語もわかるので、なんとかなった。



■わからないけどわかりあう
さて私は英語も苦手だ。通訳のタマゴを名乗っておきながら、苦手だ、と何も堂々と叫ばなくてもいいのだけれど、ロシア語を数日しゃべっていると英語が喋れなくなり、その逆もしかり。ロシア語だけ何日も読んでいればロシア語が喋れなくなり、喋っていると読めなくなる。単純に修業が足りないんだと思う。

先日、記事の執筆の関係で、某雑誌のロシア語版の記事を訳してだしたら、ついでに英語版もチェックして頂戴、と上司に言われた。しかしとても上司には言えなかったのだが、その日の私はnowとhowの違いすらわからないレベルだった。だって形が似てるじゃない。東京の地下鉄で先日、人様のTシャツにeveryone って書いてあって、エブリオネってなんだっけ、と数十分悩んだ。その後英語の記事を必死に読んで、(おそらく無事に)納品した。後日知ったことだがその上司も英語を相当努力して勉強していたので、下手に愚痴らなくてほんとうによかった。

ポーランドでの話に戻る。この町ではなにかを話さないと生きていけないので、英語とロシア語ちゃんぽんの怪しい言葉をしゃべる。

なんとなく、通じる。そしてわからないなりに、いろいろ親切にしてもらえて、わからないなりに、なんとかなる。

ポーランドの田舎町で友達がバス車内で私を待っていてくれて、でも満席だからバスは発車しそうで、私たちが引き剥がされそうになったときも、運転手さんに「友達が待っているんです!!」とロシア語で叫んだらなんとか入れてもらえた。

ポーランドの田舎町で私が怪しい言葉をしゃべっても、店の店員さんはだれも動じない。親切になんとかしてくれる。自分が意を決してロシア語か英語でえいっと口をひらいてはじめて、キミ英語しゃべれる?と聞かれたり、英語のできる店員さんを、わざわざつれてきたり、してもらえるのだ。コミュニケーションの勇気をさぼってはいけない。

そういうわけでその町で私はノートパソコンを買ったりと、旅先にしては結構大きな買い物もしたし、どっぷりすごしていたのだけれど、トラブルは何も起こらなかった。居心地がよすぎる。



■ことばへの潔癖さ
友人のロシア人女性、サーシャが5月に日本に旅行に行った。彼女は日本語を勉強していて、ひらがながよめて、日本語であいさつができる。

元気に楽しく日本で2週間過ごして、帰ってきた後、感想をきいたら、こんなことをいっていた。

「日本の人は、英語で道を聞くと、指をさして、ぱっと、逃げてしまう。日本語できくと、手をとって、わかる場所までわざわざつれていってくれた」

思うに日本の人って、自分もふくめ、外国語にたいして、ちょっと潔癖すぎるかもしれない。彼女が英語できいても、指をさせるぐらいに質問が理解できるなら、手をとってつれていってあげたらいいのに。

英語ぐらいできなければ。

というフレーズを時々聞くが、私にはこれがとても暴力的に聞こえる。語族の違う言語を、もともとマルチリンガルでもない日本人がそんなに簡単に身に着けられるはずない。自腹で本を買ったり、自分で地道に単語を覚えたり、まいにち地道にラジオ講座を聞いたり、ブツブツ発音して、たくさんの時間を投じる必要がある。

ぜんぶわからないけれどちょっとわかる、というのも楽しい。そして通じあえる。それでもいいじゃないか。できない自分を責めてばかりいたが、そういう自分も、ポーランドのおかげで、ちょっと許せるようになったかもしれない。

もう荷物をぜんぶまとめて、почта россииに詰め込んで、横浜にかえっちゃおうか。というきもちと、まだなにかくるはず。
というののせめぎあい。それも根拠のない自分の勘で誰かに説明できる種のものでもないし、帰ったところでいる場所もない。
他人への責任を何も持っていない自分は身軽だけれど、
嫌でも他人と比べる機会が多くて、不安を覚えるようになった。
わがままにできている。
だいじなものを整理する。
青い空を毎日見上げる。既に葉っぱが黄色いのだが、四季の波がここは弱い。台風も地震もないこの土地は、やっぱり一生過ごすには合わないのだろう。
せめてペテルブルグには来週帰ろうか。まだクラコフ。
ああもうなんてわがまま。生理前のせいかもしれないけれど、コンプレックスの塊になっている。


ーーー
クラコフ

夏の映画祭(文字がわかってコ―フン)

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ちょっと見えすぎやしないか。


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少女は踊る
девочка танцует...

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ひょっとしてハルカさんは東京にいますか。というメッセージが立て続けに来るのだけど、なんでだろう。私のコピーロボット(パーマン)が東京にいるのかしら。


ーーー
ロシア語なんて嫌いだ月間に突入していたのだけど、
若干浮上してきた。
なんで続けようと思うのか自分でもよくわからない。
しいていうなら日本語だけで情報を取るのが危険だと思うからだろうか。英語は私の周りの人が懸命に勉強している。
これ、10年以上前に自分がロシア語に興味を持ちはじめたきっかけとまったく変更ない。
そして今から第三の外国語をはじめるのは多分もっと苦しい。
先日英語の記事も読んで頂戴、と言われたのだけどその日の私はnowとhow のちがいすら認識できなかった。だってそっくりじゃない、形が。


ーーー
すこし復活。
まわりも、じぶんも、大きな波のなかにいて、
巫女なんてしてると
しかもお年頃、
からだに一切何も波がないわけがないので
そうならない食べ物を選んだり
そうならない生活をするのは大事だけれど
そうなったときに話せる(とりあえずきいてもらえる、不安は確認できる)関係でいることもすごくだいじだとおもう。
それぐらい言えなきゃオシマイだよ、だって毎日隣に寝てるんだから、とK先生は笑っていたけれど、それって結構難しいのではないか。とその後私は女友達と話し合った。

ーーー
多少復活。
すなおになりなさい。とおりてきた
謎にポロポロ泣いた。
女の思考回路は我ながらほんとうに面倒臭い。
最近きづいたのだけど私側がすなおになりやすい相手と、意地を張りやすい相手がいる。
今日はいろんなことに気付いた。
鐘の音がよく響くこと。
どこかの教会の聖歌隊の讃美歌がほんとうによく響くこと。
そらがとてもきれいなこと。電線のない空ってとてもひろいこと。くもがきれいなこと。
曇りの時間も美しいこと。
ひかりがよくおりていること。
だから部屋にいても音楽を聞かなくても世界は美しい。
外国語がつたわらなくても、遠い相手でも、
虚飾を削いでなんとかしようとすればなんとかなること。
電線が多くて、雑音と騒音が多い都会だと、
耳をイヤホンでふさいで、
視界の広さをスマホでふさいで、
どんどん閉じていくプロセスがよくわかった。
そうして感じない人間ができあがる。
だからずっとこの大陸のどこかにいて国際結婚をしてダブルの子供を産むつもりもないのだけれど、
目下東京に帰る必要性をあまり感じない。
というか東京に帰るのが怖い。
あいたいひと、このひとといたい。とおもうひとがいる以外には。
賛美歌がやまない。あれはどこの教会だろう。
探しに出かけて彷徨おうかとおもったけど、
ひとりで出かけるにはもう薄暗くなってしまった。

ーーー
1.まあ不思議な話なのだけれど、占いサイト(自分がやっているところもそうでないところも)の所属鑑定士を見てみると、エセスピリチュアルかどうかわかるようになってしまった(去年ぐらいから)。あくまで自分判断。
2.カーチャさんの電子ピアノの純に泣いた。
わざわざエセスピリチュアルなんて語らなくても、かみさまはこころのなかにいる。
3.空がきれいすぎて動けない。2週間ほどずっと調律している。
あと、PMSなのか、この数日いろんな人の愚痴を聞きすぎてしまったのか、謎に体調が悪くて、人さまの簡単な軽口がけっこう堪える。口の悪い人はもう懲り懲りなのでプライベートに入れないようにしているのだけれど。大人だし物理的な距離もあるし彼氏でも彼女でも親兄弟でもないので本人にわざわざ話すほどの話でもない。食べたものもわるかったのでこころあたりもある。なんなんだろう。卵巣がいたくてコンプレックスとか自己否定とか負の感情。久々にしんどい。

ーーー
カワイイ後輩がわざわざお金を出して私の記事を買ってくれた上にわざわざカワイイ感想をくださった。
とても励みになりました。
有料部分は師匠と自分が仕事のなかで教わったこと、自分の過去の経験に教わった大事なことしか書いてないから、
本当に当てはまる人はそれに気づかず無料部分だけうっすらよんで引き返して、課金すらしないで去るもの。
素直な彼女ははしあわせになると思う。
G社の生活で思ったけれど、
あそこは給与水準が低いせいもあり、いかに自分が損をしないかに躍起になっている人が多かった。
節約とケチを勘違いしているというか。
私が辞める頃は某上司のおかげで(いまもう転職してタクシー会社にいる)だいぶましになっていたけれど。
しなやかで縁とモノ(お金も、情報も)をまわせるひとになりたいと思う(自戒)

ーーー
■オーダーメイド。
ココナラでクライアントに占いを一件500円とか1000円でその人に合わせて売っているのは、どうも元が取れない(業務完了までに数日かかる)のでかなり値上げした。占いとはオーダーメイド。
単価が安いなら出来上がったものを売れるシステム作ったほうが楽ということをこの数日note を書いて数件売ってやっと思った。
だから有料メルマガとかあるのか。
まだ数件だけど、「ちなみに何が一番売れた?」という編集長の視点がさすがだとおもった。
■わずらわしさの最小化
おがわさん;「それってログインしてればタブレットとかスマホでもできるんでしょ。それだけ稼げる機会がある。しかも常に利益しか出ない。1日かけて勝ち負けがある俺のFXと大違いじゃん。それってすごくない?」
ハルカ;「始まったら終わらないからあまりログインしたくない。。」
おそらくこのアプリの同業者で、
一時期大活躍していたけれど突然フェードアウトする人が多いのは、
費用対効果とか飽きたとか(負のオーラに)受けたというのもあるけれど、これが一番大きいのではないのかと思う。
とはいうものの、私の紹介したA嬢はなんと片道二時間の通勤時間中にスマホでこの仕事をやっているらしい。
終わらないお客さんをどうすればいいか、というのを私たちはチャットで話し合った。
彼女を見習って、私もリガに入って以降、いろんな場所で私の古いタブレットと重いスマホを駆使してこのアプリの仕事をしようと試行錯誤していた。意外とできた。
最近ノマドの道具を準備して、ネットワークを整えて、こちらもなるべく速く返信できるようにして、プロフィールにそういうふうに明記して「1時間以内ですよ!」と。あるいはやりたくなければ「今日は30分以内ですよ!」と鑑定のはじめに流すようにして、時間が過ぎたらお客さんにこちらから断れるようにした。
ある程度話をしつくすと、
あまり占いでお金をつかってほしくないしお互い時間の無駄だ。
この間noteの就活の続編で書いたけれど、わずらわしさを最小化すればいいんだ。なーんだ。
今日のリピーターさんに私もいろんなことをおしえてもらった。
ある程度話すお客さん、頭の回転の速い方は複数同時鑑定より1対1で話したほうが結局利益が上がるし向こうもすっきりしてかえっていく。

ーー
■会社設立したけどつらいです。
個人事業主ではなく会社のほうが、どう良い?
■外部の信頼と、育った時に売却か他人に任せるかして、
不労所得になりうる。そうすればあなたはずっとやりたいことが、できる。
(そうか)

ーーー
先日アウシュビッツで知りあった人とのキーワードは
「ぴょん、する」
だった。
何日かぶりに日本人をしゃべれるというので、わたしたちは名前も知らないままいろんな話をした。
ぴょん、というのは動詞。
安定した仕事を放り出してでも、
一度の自分の人生をどう楽しむか。
なぜもう既に自分には合わないとわかっているのにそこで頑張り続けるのか。
貯金もなくはない、
そこを手放してもなんとかなるスキルもすでに身につけてある。しかし頑張らなければならないような気がする。
仕事もプライベートも満たされないので不毛な恋愛からも離れられない。
お金があってもつねに不安。
そういう友人の話をしたら、
その友達からメールがきた。
私が軽く返事したら、
睡眠導入薬をのまなくても今日はねられる、といっていた。
先日の人は数年アメリカに住んでいるそうで、
アメリカ人は日本人より幸せそうにしているから一生海外に住んでもいい。と言っていた。そしてそのままキエフに飛んで、チェルノブイリをみにいくという。
わたしたちはそこでわかれた。
私自身もうアメリカは縁がないとおもっていたけれど、
「最強の資本主義社会のアメリカですら」そうなのだ。
私は愕然とした。
クラコフはとても波動がよくて、
ホステルにきいたら部屋はあるというので少し延長した。
旧市街をちょっと散歩した程度なのだけれど
一時間あるいは30分ごとに鐘の音が響き渡るのが心地いい。

ーーー
パソコ。はじめてのhp社。
職場で使ったことはある。10.1インチだった。
帰ってネットを見てみたら、スペック多少違うけれど日本で買うより安かった。
きのう食堂で格闘して、日本語パックもいれられた。
もっと小さくてもよかったのだけれど結構書くのでこれぐらいでいいや。という結論になった。店頭でそこにあるパソコンの最小サイズをいろいろ試してみて、先日メリリンにもらったアドバイスはとてもとても重要だった。
「ようこそ」の画面がポーランド語のまま。
これはこれで黒子みたいなものでカワイイ。モバイルOfficeまで入っていた。

ーーー
5歳のタブレットではノマドに限界を感じたので
二代目パソコをかった。
仕事するのに効率が悪すぎる。
小柄な色白美人。何もポーランドでかわなくてもいいじゃない、と笑われたのだけどロシアで買うのはいろんな意味で怖い。
一ヶ月ぐらいでモトはとれると見込む。展示品だったのでいまポーランド語から言語パックを落としている。ドキドキドキドキ。

ーーー

21日
出かけようとすると雨が降る
占いのお客さんにコールをいただいたのでHPをなおす
思っていたことをぎゃあぎゃあ書いて有料記事にする。
あっさりランチ代になってびっくりした
HPをいじりながら巫女系でできることを棚卸しをするといろいろあってびっくりした。
レイキとかマギックとか回せば稼げるスキルなのだけれど持ち腐れだ。
あと最近の人間関係は私の巫女部分にかなりニーズがある気がしている。みんな言わないけど、私と仲いいひとは鋭い人が多い。むしろ東京に帰ってじぶんの勘を保てる自信がない。あと今日気づいたのが、まわりのみんな
私の年齢とか経験とかスキルの未熟さ問わず、私のこと尊重してくれてる。東京の台風は大丈夫かしら


ーーー
尊敬するひとに感想をいただいた。わざわざ課金してよんでくださった。うわーん。


ーーー
部屋を変えたら眺めはわるくなったのだけれどネットの調子がよくなったので占いの仕事をする。
近年稀に見る餓鬼草子みたいなひとがきた。

アプリの向こうもオトシゴロの人間がいるわけで
そういう想像力が欠落した飢餓状態なら占いなんか来ないで寝れば良いのに。

なにはともあれだいたい私のところに来る人は
受け取るのが下手なひとで
でも純粋なひとがおおいのでみんな幸せになってほしい
それにしても。
当たっているか外れているか、鑑定を受けてわかるのならば
鑑定なんか受けなくても
答えはご本人、わかっているんじゃなかろうか。

ーーー
20日
昨日書いた有料記事が売れた。衝撃。お昼代が稼げた。嬉しい。食堂でペリメニをたべた。わーい。

ーーー

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アウシュビッツ収容所とビルケナウ収容所の見学に行ってきた。

6時間のツアーに参加した。

午前中アウシュビッツ3時間、午後ビルケナウ収容所3時間。

英語のガイドさんが20人弱のグループを連れて回る。



英語のツアーだったので私は20パーセントぐらいしか話を聞いてなくて(聞けてなくて)

時々我に返ってガイドさんの話を注意深く聞くと結構生々しい具体例とか、

ガイドさんがガイドの仕事をする中で独自に集めた、ここに見学に来たヨーロッパ人の親戚の被害者の事例の話とかをしていた

日本語で聞いたらもっとつらかったとおもう

博物館として展示物化、客観化していて、

時々思うがヨーロッパの展示ってアジアや原爆ドームみたいに生々しくない

70年以上の年月と毎日まいにち、たくさんのひとの訪問で

じわじわ、ずーんとくるけれど

場はけっこう浄化されていた気がする。

不思議なことに、波動がよかった(そうじゃない場所もあったけれど)。

ものすごく、晴れていた。

剃られた髪の山とか毒ガスの空き缶とかは一箇所しか展示なくて、もちろん撮影禁止。

あとガス室内も、撮影禁止 。

だからほぼ家畜小屋みたいな建物内部と当時の写真、犠牲者の写真、犠牲者のリスト。

そこで知り合った日本人観光客の方とも話したけれど

カンボジアのポルポト政権の名残りとかベトナムのホーチミン市の展示のほうがよっぽど生々しかった。

結構生々しいもの取り去ってて

しかも私自身は中学生時代から「映像の20世紀」(NHK)を見まくっていたのであまりつらくなかった。

前後数日あまり動けなかったけれど、これはアウシュビッツのせいなのか、満月のせいなのかわからない。

だから一番つらくて、ずーんときたのは、

犠牲者のひとたちが収容されるまえに撮ってカバンにいれてきた、

普通の幸せだった頃の、家庭の集合写真とか、結婚式の写真とか、普通の生活を記録したセピアのフィルム。

写真はビルケナウ収容所。ひかりがおりていた。

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