2017年07月

小さいころに
といっても小学校中学年ぐらいまで
朝晩祈っていた

ふとんのなかで結構真剣に祈っていた。
おじいちゃんおばあちゃんかみさまごせんぞさま
そのほかのかたがたにあてて。

そうしていた頃の自分が幸せという感情だったのかは覚えていないけれど
わたしは両親姉妹にまもられていて、
そして世界は小さくて平和だった


やがて、大人になって、
そうしてもそうしなくても、
天災はおこるということを知った
人のちからではどうしようもない流行病、疫病や戦争もたくさんあることを知った

親はやがて老いるということもわかってきた
じぶんもやがていつか老いるということもわかってきた

おんなじようなひとに振り回されて
おんなじような感情を握りしめた
若い時代はもうすぐおわる。
幸せってなんだろう。
美しいってなんだろう。

5,6月は感情的に苦しい月だった。
もう誰とも、
特に家族と、
わたしは喧嘩をしたくないし、
誰にもきつい言葉を言われたくないし
いいたくない。


恩師が教員を辞めて、
故郷に帰っていった。
20代前半の自分を精神的に支えてくれたかたで、
文化人類学の大先輩である。
帰る前、東京でお目にかかったヒマラヤ鍋を囲む会で
仰った
わたしは修行を再開しますよ
お祖父様が修行者で御本人も高野山で、大学時代に出家しそうになったことがあるという

旧ソ連圏をひたすらあるいて、たくさんの教会を見てきた
台湾、香港、バリ、京都、そのほかたくさんの寺社をみてきた
ポーランド・クラコフの教会でも、スロヴァキアの首都ブラチスラバでも、
リトアニアの首都ビルニュスでも、
週末に、あるいは一日のおわりに、あるいはクリスマスの日に、
あたりまえのように教会に行く人たちがうらやましかった。
小さいころからそういうふうに生きたかった。

信仰を背負うこと、
かみさまとともに生きる選択を拒絶しているのは、
あんがい自分自身かもしれない。


わたしにしては珍しく、誰にも相談せずに、
一週間ほどで自分で決めた。
自分できめて、そうした。


それを湘南の兄に電話をしたら、
おめでとうございます、祝福された。
ナイスチョイスですよ、と。
新しいことを始める時につきまとう不安もきいてもらう。わかりますよ、と。
明るいニュースだ、と彼は言った。ざわざわしなくなりますよ、と。


バリ島でみた、
たくさんの美しいひとたちみたいに、
かみさまとともに生きる人になりたい。


先月、師匠に会いに行った。
この世はパラレルワールドで、
この世界は仮想であるっていう考え方もある んだよ、と聞いた。



占い館にはじめて、10代の男性のお客さんがいらした。
話自体は、同性愛の相談で、
タロットに出てきた絵柄に事象を乗せて回答していったら
一応満足して帰ってくれたのだけれども、
じぶんの回答がひどく薄っぺらに思えた。
宗教とか、哲学の勉強をしなければと思った。
大学とか生涯学習的なこと、もっと宗教的なことも勉強したいと思った。
自分はなにに繋がっているんだろう。


9月に結婚式を控えたミホさんと電話をする。
「岩波の青の仏教系の本は、私も人間関係が苦しかった時に助けられたよ」
と言っていた。


2015年7月
おかおじさんに言われた。
わたしのハートは無限の宇宙に繋がっている。
きみは最低でも天照大御神に繋がって、いる。


ブハラのシュフラットからメールの返事をもらった。
Ууупс!Харука? Эт ты???
Я то думал что ты променя вообще забыла.
Когда ж мы еще встретимся ?
Скучаю.
「君はボクのことなんかもうすっかりきれいさっぱり忘れちゃったと思っていたよ。」
ブハラに骨を埋めるという選択もかつて、
まったくないわけではなかった。
あのとき渋谷でそっちを選んでいたら、と時々思う。
いまでもわたしのことが夢に出てくるそうだ。
でもそうしなかったから、
記憶は美しいし、このひとはいまもやさしい。


年齢的なあせりやプレッシャー、
恋愛、親の老い、仕事
何年も同じような問題にざわざわし、
なんども同じようなタイプの人たちに振り回され、なんだかもういい加減、疲れた。
真実ではないことがらに振り回されるのは、
もういやだ。

瞑想で心の癖を変える ヒマラヤ大聖者のシンプルな智慧 (幻冬舎こころの文庫)




珍しく誰にも相談せずに、自分でそこにお世話になることに決めた。
いつも行くヒマラヤカレー屋さんで10冊ぐらい読んで、
インターネットのオンライガイダンスを見て、一週間ぐらいで決めた。
自分できめて、そうさせていただく。それが7月20日。

*
婚活出産など女性としての年齢的なあせりや世間のプレッシャー、
同じような恋愛の問題の繰り返し、親の老い、仕事の自己実現。
何年も同じような問題にざわざわし、
なんども同じようなタイプの人たちに振り回され、もうなんだか疲れてしまった。
人様の結婚出産などを素直に祝えない自分も嫌だった。
だんだん年老いていく両親を目にして、
いい年して結婚も子供もいない自分が親に申し訳なくて、そういうことができるような心の状態とは程遠くて、申し訳なくて、実家で親に顔を合わせるのが嫌だった。消えてしまいたかった。

昨年まで2年弱しばらくロシアで暮らしていたけれど、昨年帰国し、東京が苦しい。
ロシア語の勉強をしているのでいずれまた海外と日本を行ったり来たりしたいとは思っているけれど、
物理的に行き来しても心のザワザワは全く変わらなかった。
どんなに美しい光景を見ても、常に苦しかった。
このループから少しでも抜けたくて。
旧ソ連圏を沢山旅行して、たくさんの美しい光景を見続けてきたのに、
心のザワザワはちっとも落ち着かなかった。


*
5月に父が手術をした。
手術はぶじに済んだけれども、麻酔から覚めない父を見舞って、
不安のあまり姉妹喧嘩をした。
わたしは三人姉妹の三女で、小さいころから両親、祖父母たち、姉たちにちやほやされてそだってきて、
若いから、小さいから、よくしてもらうのが、いろんなものをゆずってもらえるのが、当然だと思っていた。感謝が足りなくて、傲慢で、わがままだった。自己犠牲的で愛のない、見返りを求めた偽善だった。

姉と大喧嘩をして、思った。
こういう性格のままではいつか、相続争いになってしまう。

*
2014年に自宅介護の末に祖母がなくなったとき、母は自分で、兄弟と、姉と、遺産分割をやってのけた。
仲が悪くはなかったけれども、ちょっと良い場所に土地があって、
(祖父はそういうところに土地を買う、先見の明がある人だった)
ただでさえ介護の末に自分の母親をなくしたかなしみのなかで、私の母は強くて実用的な人で、
ことことと死亡届を出しに行き、火葬許可証をとってきて、葬儀を(喪主は長男である兄に譲り)すませ、そして相続の整理をしていた。
みていられなくて、母が兄弟たちの私欲にまみれて傷ついていく様をみていられなくて、わたしはなにもできないくせに、毎日ひとりで勝手に母の分まで傷ついて、ハラハラして泣いていた。

結局私が連れてきた、司法書士のさかた先生と、行政書士の同期の方が、つつがなくまとめてくださった。おじたちも伯母も、二人の先生には会おうとしなくて、母が一人でぜんぶ先生に会って、事務的なことをぜんぶすすめた。
ぜんぶ終わったあとに、母はくたくただっただろうに、私を呼び出して、いくらかのお金をくれた。

*

小さいころから「ひこうき」をしてくれたお姉ちゃん。
わたしは姉妹で憎むような、そんな生き方はしたくない。
自分の性格を変えなきゃならない、と思った。

*
長く知っている易者のおじさんに、

自分がいつも同じような人を好きになってしまって、同じようにひどいことを言われてしまう。
それは20歳前後からずっと変わりません。どうしてでしょうか。

という相談をした。
ちょうどその時もものすごくひどいことを言われて、泣きながら電話をした。


「ボクがね、エキシャとして何十年も人様の相談に乗ってきた経験から言うとね。
結局、不倫とか、DVとか、そういうダメな恋愛を繰り返してしまう人って、
心の癖とか記憶とかトラウマとかと、自分の行動がべったり一緒になってしまっていて、そういう行動パターンがみについているから。
だからはるかちゃんが、出会う人を変えて、運命を変えていくには、
心の状態を俯瞰して、離れて、観察して、行動パターンを変えていく必要がある」と、そういう趣旨のことを、仰った。


*
ちょうどその翌月、占い館に一緒に出ていた先輩と一緒に、松戸から御茶ノ水まで一緒に帰った。
というか彼女はJRに乗ればすぐ帰れるのに、なぜか私と一緒に地下鉄ルートで迂回して帰ってくれた。
「占い師一本で食べている人で、幸せそうな人は見たことがない」と語る彼女は、占い師だけでご飯を食べているひとで、世界中を楽しそうに旅をしながら生きている人だった。
彼女はとあるところで瞑想を時々している、と教えてくれた。とある場所に籠って、それはボランティアだけで構成されていて、10日間も何も喋らずに瞑想するそうだ。特に先生は居ないらしい。先生がいないことはちょっと恐ろしいことだと思った。
ただ瞑想って、そんなに近いものなんだ、意外とみんな簡単にやっているブームなんだ、ということは理解した。

*
2011年におつきあいしていたひとはいろんな点で感情と記憶が強すぎて、言葉も強すぎて、結局、このままでは幸せになれないと、身体がひきさかれる思いでお別れした。それから、わたしはまるで”記憶の交通事故”に遭ったかのようになってしまって、結局その後誰ともおつきあいする気が起こらなかった。

ただしその後も同じようなタイプの暴言をふるう人を勝手に好きになってしまって、
同じようにひどいことを言われてしまって、同じようにふりまわされて、
同じように傷つくことは沢山あった。
思い返せば20歳前後から、生理前のホルモンバランスの影響もあって人にひどいことを言ってしまい、ひどいことを言われていた。

病院も漢方も食事もエネルギー的な事ももうほんとうにいろいろと試したけれど、特に何も変わらなかった。歳をとって女性としての身体が落ち着いてきたから少しましになったくらい。

*
8年位前に、湘南の兄が、私に一冊の本をくれた。
大学時代に行っていた整体で働いていたお兄さんで、
なぜか大学前のスターバックスで遭遇したことがあって、
なぜかそこで連絡先と住所を交換してあった。
そのあと彼は仕事を辞めてインドに行く予定だと聞いていた。

帰国した兄から手紙が来て、鎌倉で整体を再開しているということで、
会いに行ってきた。
その時私は交通事故に遭っていて、身体がおもうように動かなかった。
ふたたび鎌倉のスターバックスでくれた本は、
瞑想に関する本だった。先生につかないで行う瞑想は、抑え込んできたもの、薬やお酒、たばこなどで誤魔化してきたもの、過去の記憶、いろんなものが噴き出して危険だということは、そこに書かれていて、知っていた。
著者の方の講演会が二子玉川のカルチャーセンターであって、講演会に行ってみたけど、その時はよくわからなかった。
兄弟子がインドから来ると言うのでもう一度新宿の講演会に行ってみたけれど、ただただ眠くなってしまっただけで、やっぱりその時もよくわからなかった。
それが7年ぐらい前の話。

それで
改めてその方の本(冒頭が改訂版)を買って、
いろいろと読んでみたら、こういうことが、書いてあった。

「心はくっつく性質があります。」

死ぬ時に持っていけるのは、本来のあなたは魂であって、心がそこにへばりついているから同じ行動パターンから抜け出せない。さまざまな心の状態や記憶やトラウマは、あなたではない。

*
後年思い返してみると、
小さいころから読んできた、水木しげるさんや手塚治虫さんが描いていた世界だった。

*
ひとまわり離れた従姉妹たちが、次々と婦人科の手術をした。ずっと独身で、手術の結果どのくらい子宮や卵巣を切除したのか 、子どもは産めるのか、母は伯母に「怖くて聞けなかった」そうだ。


*
かみさまや、両親、祖父母たちからいただいた自分の情緒の豊かさで、繊細さというか勘のするどさで、悲しい思いをたくさんしてきた。

とくに東北に地震のあった年はたくさん泣いた。
その時におつきあいしていたひととは身体が引き裂かれるような思いでもうこういう人とは生きられないと思ってやっとの思いでおわかれした。なきながら選んだこっちの道。

小さいころから、じぶんの祖父のように穏やかなひとのお嫁さんになって、自分のおばあちゃんみたいに、孫が10人くらい欲しかった。

そういう人を探して、出会えたとしても大事にしていくのに、自分の傲慢で被害妄想的なめんどくさい性格と、7,8年経っても交通事故の後遺症で思うようにならない身体、酷いPMS。その状態では大事にできる自信はおろか、出会える自信もなかった。このままだとずっと同じような雲り空の日々が一生続くのは目に見えていた。自分の行動の悪い癖や思考の悪循環をもったまま、こういう状態で30年生きてきたことを振り返ると、タナボタ的にかみさまからいいものがふってくるのを待つのは傲慢だった。旧ソ連圏いろんな教会や、旅先の寺社をめぐったけど、かみさまとはつながれなかった。
自分ではもう無理だと思った。

だから知りうる限り一番いい先生のところに通わせてもらうことにした。

ここにつらつら書いたような問題にふりまわされて小さくなって消えてしまいそうになりながら生きるのではなく、
自分の情緒の豊かさを発揮して。
豊かさがわかちあえるパートナーに出会って、
色んな話ができる仲のいい夫婦になって、
じぶんも相手も、神様にもらったものを最大限発揮して。
そういうふうに生きられるように、なりたい。

去年は私フラフラしていたので、前のそれはいろんな土地から仕事をした。
サンクトペテルブルク、イスタンブール、クラコフ(ポーランド)、リガ(ラトビア)の深夜2時のバスの待合所。
バルト三国横断の長距離移動のバスの中。etc。

昨年秋にウクライナのチェルノブイリ原発事故の見学ツアーに。
そのツアーの帰り、ウクライナのキエフのマクドナルドから
とあるやりとりがあり
ああこれからこのかたたちと仕事をしていこう。っとった。
その後、その方達が動いたので、
わたしもそれにあわせて舞台を変えた。

まえの場所でお客さんたちに辞めることを伝えきれなかったけれども、
多くの方が次の舞台までわざわざはるばる訪ねて来てくださった。本当にありがたいことに、今では基本的にリピーターさまで、すぐに埋まる。

私のところに来るかたたちはみな純粋なかたばかり。
そういうかたたちが払ってくれるお代と時間は、
正義とはなにか、真実とはなにかを追求できるかたたちと分け合いたいとおもう。

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あいたいひとがいるって幸せなことだと思う。

同時通訳のO先生の授業に行っている
自己紹介のときに
わたしはミールの出身です、といったら
「ああ、アズマ先生ね」と仰った。
アズマ先生ご夫妻はそんなに有名なのだ。
それ以降、私には厳しい気がするのはきっと気のせいではないと思う。

いや厳しいというのも失礼な話というか違うのだけれども、
今日も指摘をされた。
「エルとエルの発音、時々ひっくり返りますね、意識してみてください」
そうなのです。つづりも間違えてしまう。
多喜子先生はあんなに怒ってくださったのに、
今となっては指摘してくださるのはO先生だけである残酷さ。


O先生は優しい。ほんとうに優しい。
「単語帳の単語を”何度か”練習してくださいね」
「発音がきれいに言えると、楽しいでしょう」
「何度も何度も、聞いてください。もういやっ!っていうくらい、聞いてください」
このお言葉を多喜子先生だったらこうはおっしゃらない。と思いながら一番前でいつも聞く。


自分の話。

※あくまで個人的な日記です



出版社で働いていたときに、そこの健康保険組合が無料でさせてくれる、婦人科検診というものがあった。

そこで毎年、わたしには子宮筋腫があると言われていた。要経過観察、という検査結果通知書が毎年届いた。まいとし大量の検診の順番待ちをして、雑で乱暴な検査を受けて、そういう通知が届く。それは私のココロの負担だった。

とりあえず『愛しの筋腫ちゃん』という本を読んで、玄米と、野菜を多めにする食事にした。甘いものをがぶがぶ食べるのを減らした。そして一番の精神的負担だったOLを辞めた。

当時通っていた漢方の先生に筋腫の話を言ったら「一番いいのは妊娠することだ、でも20代後半なら今どきだれでもあるのでそんなに気にしなくていい」と言われた。



私が生まれた産婦人科は、個人経営で、今でも私の生まれた町でひっそりと開業している。私をとりあげてくださった院長先生も、看護婦さんも、今も現役でいらっしゃる。

院長はおじいちゃんで、御年93歳になる(と思う)。なぜ年齢を知っているのかというと、私が生まれたあとにその産婦人科に強盗が入って、テレビのニュースにその事件と院長のご年齢が報じられたというのだ(母談)。

ロシアに長期で飛ぶ前に、そこでもう一度見てもらった。

院長先生は「(筋腫は)あるといえばあるけれど、子宮はキレイだよ」と言われた。超音波の写真まで撮ってわたしに渡してくださった。

一説では生クリームとかの脂肪分やお肉とか、大量の飲酒とか、そういうのが子宮筋腫にわるいという話。あるいはそういうのも全く関係なく、なる人はなるしならない人はならないという説もある。

ロシアの生活では、ほうっておけばすぐに生クリームができるような濃いミルク(低脂肪分とか無脂肪牛乳とかほとんど手に入らない)、濃いチーズ、濃いヨーグルト。

安く手に入るのは魚ではなくお肉ばかり。1年8か月ほどロシアでそんな生活だったので、もう帰国してから婦人科に行くのが怖かった。



それで、帰国して、しばらくして、その私の生まれた産婦人科に行った。

わたしを超音波?で診た院長先生は仰った。

「いや、(筋腫、)無いよ」

「!?」

あるといえばあるけれども目くじらを立てるほどの大きさではないということか。それともわたしのロシアの生活がたのしすぎて、おなかから筋腫が消えたということか。とにかくその日わたしは「筋腫は無い」と言われて、検査料を払って、帰った。

さすがに自分を取り上げてくださった先生なので大きな誤診とは思えない。

むしろ以前、別の婦人科で若い先生にわたしは「性病」と診断されたことがあるのだけれども、もらった薬は全然効かなくて、むしろ性病になるような男性関係とか一切なかったし、この医院に行き直したら「単純なストレスです」と言われて、もらった軟膏で症状はすぐよくなったことがある。経験の差。

現代の病院って、30年、40年生きていればそれなりに発生するちいさな部分的不調に目くじら立ててばっかりで、もっと広い視点で全体的に健康であればそれでよしとする朴訥さが足りない気がする。(もちろん先生と病院によるだろうけれど。そして見えない症状で緊急的なものもあるだろうので手術の必要性は時と場合によるけれど。)

そういうわけで。

病院や病気について時々相談されるのだけれども、自分の経験として回答すると、”(緊急でないなら、自覚症状がないなら)すぐに切らないほうがいいのでは”と伝える。

検診というのは「闇を発見するために行っているもの」であって悪いところに焦点をあてたがるものだけれども、

あるいは総合病院、大学病院だと「臨床件数を増やす為」「研究サンプルの為」「(病院側の)点数稼ぎのため」に切らなくてもいいのに切ろうとする話はまあ、ほんとうによく聞く。彼らが患者を治すだけのために働いているとは限らない。(関係者がいたらごめんなさい。)

自分の気の進まない結果だったら、のほほんとした病院で、あるいはその道の専門の病院で、勇気をだしてせめてセカンドオピニオンを受けてからにしてほしい。

結果として手術という選択でも、後悔の少ない方法をゆっくり調べて、考えてから。

とくに若い人は、切るとしても、「焦ってすぐに」切らないでほしい。髪の毛じゃないのだから仮に再生するものだとしても時間がかかる。


物凄く楽しい日々、ものすごく気力が充実していれば(現代で病気といわれるものも)消えることもありえるのは、

私自身の例だけじゃなくて、文化人類学の宗教×医療分野のフィールドワークでもけっこう報告されている。

しろくまちゃん:「こぐまちゃん、こぐまちゃんのお皿には、どうしてパンケーキがないの?」
こぐまちゃん:「しろくまちゃんが2枚ともたべちゃったからだよ」

ナレーター:あらあらしろくまちゃんたら、どうしましょう。
しろくまちゃん:「そうだ、二人でむしパンを作ればいいんだわ」
こぐまちゃん:「ホットケーキの粉から、むしパンなんてできるの?」

ナレーター:そうです、ホットケーキの粉から、むしパンをつくることができるのです。しろくまちゃん、よく知っていますね。

こぐまちゃん:「さぁ、できたね。」
しろくまちゃん:「こぐまちゃん、あたしのお皿には、どうしてむしパンがないの?」

こぐまちゃん:「ぼくが、さっきあじみのためにたべちゃったからだよ」

ナレーター:あらたいへん。 しろくまちゃんのおさらにはパンケーキの食べかすと残ったメープルシロップ。 こぐまちゃんのお皿にはほかほかのむしパン。 これではとっくみあいのけんかになってしまいます。

○○○くまちゃん:「ばしっ。」
×××くまちゃん:「きゃーっ。」 

こぐまちゃんはことりと倒れて、その大きな頭はほかほかのむしぱんの上へ。

むしぱん:「ぐちゃっ。」
しろくまちゃん:「きゃーっ。」

ナレーター:あらあら。どうしましょう。むしぱんはまぁるくきれいにつぶれて、中からあんこがはみ出しています。

しろくまちゃん:「どうしてむしぱんなのにあんこが出てくるの?」
こぐまちゃん:(あたまをさすりつつ)「ぼくにもよくわからない。」

ナレーター:そこへお父さんのおおぐまやまさんがやってきました。
おおぐまやま:「これふたりとも。なかよくわけられないのなら おとうさんがたべちゃうぞ。」

おおぐまやま:「ぱくっ。」
こぐまちゃん、しろくまちゃん:「きゃーっ。」

ナレーター:なんていうことでしょう。こぐまちゃんもしろくまちゃんも、どこからともなくハンカチをとりだしておいおいなきだしてしまいました。

こぐまちゃん、しろくまちゃん:「あーん」

ナレーター:そこへおかあさんのしろひめぐまさんがやってきました。
しろひめぐま:「あらあらおおぐまやまさんたら。そのおおきなお口がステキ。」
おおぐまやま:「そうだろうそうだろう」

こぐまちゃん:「あーん」
しろくまちゃん:「かえる」
こぐまちゃん:「まってー」
(2006/1/22)

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