2019年03月

rectangle_large_type_2_51c84adebda6d02a655726b8f532684b



■成田空港のひとめぼれ

■アエロフロートに電話する

■死なない程度に息をする日々

■「私が惚れたんです!!!!!」

ーーー

OLを辞めたきっかけは成田空港での、夏の終わりのひとめぼれだった。

2年ほど前まで、OLだった。

おそらく絶対潰れない種類の会社に勤めていた。

先日ロシア語の恩師K先生にお目にかかったところ、「まさかハルカさんが会社を辞めるだなんて、おもっていなかった。」と言われた。
「会社を辞めたい辞めたいと言っているのは知っていた。でも本当に辞めるなんて」と。

最近わかったのだけど、この恩師はどうも私を実物以上に脳内美化してくださっているところがあって、
当時私のことをだいぶコンサバティブな女の子だと思っていらしたような気がする。美化。

それでロシアに住んでいると、けっこう情熱的な日本人と知り合う。能動的に来ている人が多いので、もうほんとうに情熱的だったり、センスがよかったり、エネルギッシュだったりする。
片想いのロシア美女を追って、会社員をやめて、移住したというひと。フィルハーモニーが好きすぎてロシアに移住してしまった、というひと。

みなさん情熱的だなあ、と感心していたけれど、思い出してみたら自分もきっかけは同じようなものだった。

■成田空港のひとめぼれ
二年前の夏、ちょうど今頃、会社の夏休みを9日間もらって、モスクワに飛んだ。
モスクワに住んでいたミホさんとシェレメチェボ空港で待ち合わせして、
そのままアルメニアの首都エレバンに飛ぼうといっていた。

成田空港でモスクワ行きのアエロフロートにチェックインする。
チェックインカウンターに並ぶ列のその前に40歳ぐらいの男性がいた。
カバンといい、シャツといい、なんだか味がある。

なんとなく声をかけたい気がして、
でも用もないのに声をかける自分は変な女なんじゃないかと思って(今思うと当時の自分も十分に変な女だったのだけど)、
声をかけそびれたまま、チェックイン。
同じモスクワ行きの飛行機で、二列前に座っていた。
約10時間後、モスクワについて、トランジットの手続きのカウンターで、
質問をするふりをして、やっと声をかけた。
そのままチューリッヒに飛んで、近代建築を見て回るそう。
自分は建築士である、と名乗った。建築士なんて、自分とは別世界、夢みたいな世界の人である。
彼はその日のうちにトランジットで、私はその日はモスクワ泊で、そこでそのまま別れた。

名刺ぐらいもらっておけばよかった。成田空港にいたぐらいだから東京の人かもしれない。そうしたらチューリッヒの話も、建築の話も、聞けたかもしれないのに。どんな人かもわからないのに、そもそも独身かどうかとかもわからないくせに、なぜだかわからないのだけれど、猛烈に後悔した。

■アエロフロートに電話する
アルメニアは美しかった。
その数日後モスクワに戻り、ミホさんに連れていってもらったバレエ「白鳥の湖」は美しすぎて、
幕が上がって一瞬にして涙が溢れた。
しかしやっぱり成田空港事件の後悔は抜けなくて、帰国しても二、三週間自分を責めたと思う。無駄だと分かっているのに、アエロフロートに電話までかけてしまった。そうする以外に閉じた自分を呪わない方法がなかった。あのステキな人のお名前は。アエロフロートの東京オフィスに、ロシア語で話したら、電話の向こうのロシア人のお兄さんは、笑うこともなく結構真剣に話を聞いてくれたのだけど、もちろん顧客情報など出してくれるはずがない。(ちなみにアエロフロートは、たしかどこかの雑誌の国際線安全ランキングに日系のエアラインを抑えてランクインしている)

自分のいろんな感情をおし殺して、話してみたいと思った人に声もかけられず、
まいにちまいにち、職場ですり鉢のように気を遣って、
金魚鉢みたいな執務室で、死なない程度に息をしている自分を責めた。

あの頃は私の6年強のOL時代で一番、職場の人間関係に恵まれていたけれど、
隣の方が破裂しないように気を擦り潰し、
定期的に勃発する問題に頭を下げ続け、
私に指名でわざわざ電話をくださる地方の社員さんたちには、
会社の管理部門として冷たい回答をしなければならない。
いちばん話をしたい上司は薄暗い壁の向こうで、
直属の先輩はいい人たちだったけれど、
まいにち忙しかった。

それで半年後、会社をやめた。

会社の後輩がライスコロッケを抱えてウチまで会いに来てくれて、私が作ったビーフストロガノフをむしゃむしゃ食べながら、よく(安定した会社を)辞める勇気がありましたね、と言っていた。

なぜ安定した会社をやめたのか、他にも自分を動かした要因はその前年からその年にかけて怒涛のように沢山あったのだけれど、直接のきっかけは上述のとおり。

■「私が惚れたんです!!!!!」
私のロシア語の語学学校の恩師、タキコ先生は非常に美しい女性で、20歳上のご自身の恩師と結婚された。

旦那様は非常に雰囲気のある方だったそうで(語学学校の所長なのだけれど、私が学校に通い始めたころは既にお亡くなりになっていた)、タキコ先生はその後、ご自身のご結婚について、「私が惚れたんです!!!!!」とみずから周囲に言い切ったらしい。

先日、この学校の大先輩、第一線の通訳の女性にお目にかかった。
60代半ばだと思うのだが、美しい赤い口紅に、よく似合うハイヒールとミニスカートでいらっしゃる。なぜこの学校の関係者は美女ばかりなのだろうか。

渋谷でお昼をご馳走になりながら、「今日夜にデートに誘われているんです」という話をしたら、なぜだか私は先輩に真剣に、「そのままお泊まりできちゃった結婚」を勧められた。語学の習得には終わりがないので、本当にプロを目指すなら、女が冷静に人生設計をしていると、婚期を逃すらしい。勉強はいつでもできます、と。外国語ってなんて恐ろしいんだろう。(ちなみにその人とはすぐに破談になった)

そしてもう一つ、アドバイスをいただいた。
あなたはタキコ先生の弟子なんだから、自分が能動的に愛せる人と、一緒になりなさい。

あの日シェレメチェボ空港で、あのお兄さんに名刺をもらっていたら今の私はいないので、それで良かったのかもしれない。

ロシアでしばらく暮らしてぼうっと毎日広い空を見上げて、氷りついたネヴァ河をまいにち眺め、いろんな町に雑念が飛ぶほど飛びまくって、そうしてやっと、人生って美しい、と思えるように、なってきた。

感情を押し殺して生きている時間など、なかった。

(2016年)

rectangle_large_type_2_5847f45f0a2f93fb3880b3b77034eea0


QUEENの映画が賞をとったので、『ボヘミアン・ラプソディ』はおそらく4月位まで映画館で鑑賞できると思われる。

既に13回映画館で見ていて、希望としてはあと20回ぐらい映画館で見たいのだけれども、最近ずっと深夜まで国内観光ガイドの原稿を書いていてどうもその余裕がなかった。



ひょんなきっかけで、3月中、期間限定でお勤めに出ることになった。そこの会社の社長さんや、隣の席の方や、担当の上司の方に名刺をいただいたので、あわてて、私のフリーランス(フリーライター)としての名刺をつくった。私の隣の席の方、紳士で偉い人で、でも仕事上のやり取りは私と特に発生しないので、朝夕の挨拶だけで隣の席でしごとを無言でこなすより、私がナニモノかわかったほうが、お互い居心地がいいだろう、と思って、センエツながら、自分がフリーライターであること、ちょっとロシアが好きなことを名刺に書いて、お渡しした。



それでそこの職場の契約の終了日の認識について、行き違いがあって、春分の日の前日、感情的なトラブル(?)が勃発した。

ちょうどその日は私が生理前(PMS)ですごく体調が良くなくて、しかもその日は妙に暑い日で、なのにうっかり私は真冬のタイツとタートルネックのセーターで仕事に出ていたので、認識の行き違いと起こった事と、最近深夜まで原稿を書いていた疲労にわたしの頭が追いつかず、突然の展開にもかかわらずその事件当日中に私を訪ねてきてくれた営業担当の女の子に、強い口調で話をしてしまった。

ベローチェでちょっと怒ったあと、冷静になって、その派遣の担当の女の子と、よくよく話をしてみたら、彼女は社会人二年目の女の子だった。

話をしていてわかったのは、彼女は私がフリーランスとして執筆連載しているインターネットの旅行ガイドの読者である、ということ。

これが私の記事↓ (編集さんがしっかり綺麗に仕上げてくださった)

日本のウユニ塩湖♡幻想的な”天空の鏡”香川県「父母ヶ浜」へ行こう♪
南米・ボリビアにある「ウユニ塩湖」は、幻想的な写真が撮れると、近年人気のスポットです。「一生に一度は見てみたい」と憧れてい
icotto.jp
彼女は土日も仕事をしていて、平日も10時ぐらいまで仕事をしているので、旅行に行く暇がなくて、ずっとそのサイトをスマホで見ている、と。

運よく、最近私が書いた中で一番のフォトジェニックな記事である、この「香川県・父母ヶ浜/日本のウユニ湖」が公開された直後だったから、ああ、あの父母ヶ浜の記事、私が書いたんですよ、とロイヤルミルクティー(アイス)をごちそうになりながら私が言ったら、彼女にものすごい感動された。

彼女は歓声をあげた。

「わーすごい!友達に話していいですか!?」


私も自分の人生で友人じゃない人で初めて、自分の書いたものの読者、という方に出会った。

わたしのフリーライターの名刺、持って来ればよかった、と言ったら、「欲しいです!」と言われた。

もう深夜までセロリのピクルスを齧りながら書いていて、執筆やめたほうが人生ラクなのでは、と何度も思っていたけれど、それでも私はやっぱり書く事をずっと続けたくて、それではじめて、こういう読者に出会えると、やっぱり深夜まで書かないわけにはいかない。


それが春分の日の前日の出来事だった。

その営業担当の女の子には、その日の夜、お詫び状を書いた。(PMSでその日暑くてものすごくイライラしていて)、お若い方に大人げない態度をとってしまって申し訳なかったこと。トラブルがあったのにすぐに情報をあつめて私のところに飛んできてくれた御礼。話をしていてとても純粋で熱心な方であるということがよくわかったこと。私も自分の記事の読者に初めて出会ってすごく嬉しかったこと。それを書いて(彼女の所属部署が手紙に入りきらないぐらい凄く長い名称だったのが印象的だった)、深夜のファミリーマートに切手を買いに行って、すぐ貼るつもりだったのにファミマのトレーニング中のレジのお兄さんが丁寧に切手をちいさなビニール袋に入れてくれて、それを断れずにそのまま受け取って、でも帰り道のポストですぐに切手を出して、貼って、ポストにいれて、春分の日の翌日、平日の金曜日に彼女の職場に届くようにした。

金曜日の昼、その営業担当さんからメールをもらった。

私が書いた手紙はお詫び状のつもりだったのに、手紙にはこう書いてあった。
「入社してからこんなに嬉しいお手紙を頂けたのは初めてで、(略)」

その後彼女と電話をしたら、「こんなにうれしい手紙をもらったのは初めてです」とまた彼女は言った。

「そうですよね、普通の人は、ああいうの、書かないですよね。」と私は他人事のように、答えた。

ていうかわたし自分で勝手に怒って自分でお詫び状を書いて送っておいてあれだけど、普通の人は書かないよね、ああいうの。しかも手書きの郵送で。
わかるよ、うん。私もそういうのが苦しくてOL辞めたんだ。

その後彼女とはちょっと仕事の話と、ちょっと個人的な話をして、電話を切った。

結局そういう一連の読者とのやり取りとか、私が自分で怒って泣いて相手に負わせてしまった感情とかそういうののお詫びを入れて人間関係とか信頼関係を再構築していくこととか、

年の離れた相手にも信頼と敬意と信愛をもって接するとか、(男女愛でも友情でもない種の、ヒトとしての)愛を出すとか、私が20代の時にお勤めをしていたときは、考えもしないことだった。

というか愛(というと大袈裟だけど)の種類を当時の私は3種類くらいしか知らなかったと思う。親子間、男女間(今思うとこれも執着)、友情。以上。

何かあっても、上司や会社がトラブルの責任をとるもので、私はその時、私の名前で仕事をしていなかったから、相手に負わせる個人的な感情とか結構どうでもよかった。

というか、OL時代の最後は人事部にいて、会社の経営管理部門にいるという立場上、営業の方とか現場の社員の方に寄り添えないことが一杯ありすぎて、苦しかった。営業出身として珍しく人事課員になったということで結構全国の支社の営業や現場の方たちから指名で電話相談などもあったのだけれど、ヒラ社員の、私にはどうしようもできないことが多すぎた。

いろんな申し訳なさややりきれなさや、日々勃発することの球拾い、揉み消し、気疲れ、そういう感情を削りながら、仕事をしていた。勘の強い子だったこともあり、当時はいろんな感情の揺れをコントロール出来なかった。結果、原因不明の耳鳴りや発熱などの体調不良に1、2年ほど悩まされて、会社は辞めた。

偶然彼女は私の読者だった。彼女は土日の仕事の合間に現実逃避として自分の記事を読んでくれている人だったのだけれど、そういう人と、あるいは読者じゃなくても、フリーランスの名刺で、個人同士で、信頼関係を築いていくということ。

そういうのが自分の名前で仕事をする、ということらしい、というのがちょっと、わかった。


残6席!旅行社の友人よりお知らせです。
ウラジオストク&ハバロフスク5日間!
往路4月28日ウラジオストク行き、復路5月2日ハバロフスクから帰国。
2都市間は寝台列車の移動、旅行代金193,000円+空港税等。


↑このページのトップヘ