ひねりだし。『上海宝貝』/衛慧 Wei Hui

2005年04月29日

カフカ終了。


上手くいえないのだけど、この一ヶ月で、特にこの2週間でいろんなものを放棄した。ぐちゃぐちゃとしたものをたくさん目にして、そういうものから上手に自分の気持ちを護る術みたいなのがまたすこし、うまくなったきがする。でも今日は一気に本を読んで、変な奴から変なことを言われたのを朝イチで思い出して、相変わらず退屈な授業で、バスをどうしようかとかこんなこと失礼なんじゃないかとか、カフカはこの先どうなるとかナカタ老人が死んじゃったとか、そういうのでいっぱいいっぱいだった。実は自分をまもること、全然上手くなってなかった。バスの先生に電話をしたら、最近は元気にしてる?色々悩んでたのはどうなった?とか、あたしの質問に答える前にそういうことを先におっしゃった。あたしはあと5000年くらいしてもそういう人間になれる気がしない。いいやつとかいいおとこというのはいるんだけど、いい人間というのに久しく会ってない気がする。それとも前の二種類に会えるというのだけでも恵まれているのだろうか。 上手くいえません。脱線事故が起こる日の前日通学に使っているJRのダイヤが乱れている、その理由は早朝に起きた人身事故だっていうので私は既に悲しかったしもうこれ以上何もない、知らなくてもいい真綿でくるまれたような生活がしたくてたまらなかった。でもそういうことは生きている限りやっぱり無理で、相変わらず一部の人間は飛び蹴りしたくなるほどむかつくし授業は相変わらず退屈だし新聞を開けばどこかに必ず誰かが亡くなったという記述がある。 なぜだかよくわからないけれど新聞というものは「どなたかが亡くなった」報道はたっぷりするけれど、「誰かが生まれた」ことには驚くほど興味を示さない。最近いちばんのヒットだったのは愛子様誕生くらいではなかろうか。あとは中国で13億人目の赤ちゃんが生まれたとか、あるいは動物園でパンダに赤ちゃん産まれた、とか。赤ん坊とは生まれ落ちた時に大衆的価値は見出されず、生んだ父母そしてその親戚とか、にとってのみ絶大な喜びとなる。どこでどの夫婦に赤ん坊が生まれたかなんて、名前の届けの際に市役所の人にとって分別しなきゃいけない書類が一枚増えることくらい、あかの他人にとってそんなものである。あたしどうだったんだろう。 亡くなったという事実を以って、三途の川のこちら側はまたひとつ偉大な命をうしなった。いかなる天才であってもすべての人間が避けては通れない道である。社会がある日ひとつの天才の生を失っても、その瞬間どこかで必ず新しい命は生まれている。自分はどこから来て、そして誰の身代わりとなってその命を天に葬るのか、そんなことを知る由もなくただただ私たちは毎朝満員電車につめこまれて、コンビニのまずいお弁当たべて、ぼんやりと時にぐっちゃりとして与えられた時間を生きる。 流水不腐、万物流転輪廻転生。無常というのは虚しいんじゃなくて同じことは続かないってこと。強くなるというのは転がり続ける石をじっと見つめて角がとれていつかすべすべと痛みが取れるようになるまでじっと耐え続けるということなのかもしれない。

coloro at 23:16│Comments(0)TrackBack(0)

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ひねりだし。『上海宝貝』/衛慧 Wei Hui