ひまわり工房あ、うん

2005年06月19日

ぷふぅ




ルソーの『エミール』、
グループワークの材料として明日は私がレジュメを作成して90分しゃべりたおさなければなりません。おなじグループには哲学科とかの学生もいるのでものすごい恐怖です。速読ではないですが本を読むのは速い方なのに、他人から教材として与えられた本は自分でもびっくりするぐらい読めません。グループの中でも私は毎週ものすごい落ちこぼれ気分を繰り返しています。彼らにできてわたしにはなぜできないの?と自分を責めることもあるけれど、きっと私ができて彼らにはできないこともあるはずだと自分に言い聞かせてなんとかポンコツレジュメをつくります。


いつも他人に対して何かを開いている状態をキープするのは、
とても大変なことだと思います。
携帯電話の電源をずっとつけていることからはじまって、
求められた時に返事をしなければならないとき。
自分にとっては解決したつもりでも、
話さなければ相手に伝わらない、話さなければ相手に対する拒絶を意味してしまうこともあります。
電話やメールをくれる人がいるだけ、問題を自分に対して投げかけてくれる相手がいるだけ、いいという考え方もありますし
あるいはそんなものほっぽって自分をそっとしておいて欲しいという考え方もあります。

自宅のベッドで死ぬことができなくなった以上、
今の時代は多くの愛情に囲まれて生まれて、
たった一人で逝かなければならない運命をたどる人が多いと思います。
いつも夜中に爪を切っている私は自分の親をそういう運命にしてしまうかもしれないし、あるいは私もそうなるかもしれません。


若い時にどれだけの経験を積んだかにより
人の度量は決まるとときどき言われます。
何事に対しても用心深いあたしは(時々一人でバルセロナに飛んで行ったりしたけど)それだけの容量のおとなになってしまうのかな、と時々心配になります。私の於かれている環境からすると考えられないくらいいろんな人とわいわいと語ったり、なんてことをして学生時代を過ごす人もいるし、普段は限られた人としか話さずじっと一人で過ごす人もいます。感受性の強いこの時代をどう生きても私たちはおとなにならなければならないし、あるいはいつか人の親にならなければならない日もくるかもしれません。

とても心の狭い大人と接したことがあります。当時の私の倍も生きているだろう年で、市民オーケストラの団長をしていて。
彼の元では音楽できない、と判断した私はある日、「あなたとはもうこれ以上音楽づくりをしたくありません」という代わりに「勉強をしたいのでオーケストラをやめさせてください」といいました。けれど他に言い方があるだろうのに、彼はあたしを傷つけるような返事しかできませんでした。あるいは私みたいな小娘に思いやりをかけられたことが情けなかったのかもしれません。彼の奥さんのおなかには赤ちゃんがいて、私が楽団をやめた後無事に生まれたと聞きました。あたらしい命がうまれたというのに、なんだか凄く悲しくてたまりませんでした。
私は彼と同じようなおとなにはなりたくないけれど、他人を幸せにできる人になれるかは自信がありません。そんなものは結果論であってひょっとすると他人を幸せにするという発想自体、オコガマシイものかもしれないけれど。

将来に対するぼんやりとした不安、という言葉はなにも芥川龍之介が辞世として遺したから有名なのではなくて、多くの人にとって的を射たことばであるからだと思います(チョット意味が違うけど)。他人と喋ってばかりいる人は、他人の知識を幅広く知ったり愛情を交わすよろこびをしっているかもしれません。けれど一人の自分という人間と対話をすることを知らなければそれとおなじものを自分にも他人にも、再生産することはできないだろうと、あまり多くの人とは語らない私は負けおしみ的に考えます。龍之介の指摘したフヘンテキ不安に打ち勝つための手段として、すべてを閉じて孤独に戻る必要があると自分に言い聞かせ、今日はここまで。



coloro at 19:49│Comments(0)TrackBack(0)

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