死ぬまでにどうしても会いたい人がいる
作りたい関係というべきか

ここにこういうことを書くこと自体おかしいと言われそうだけど
ここは私が吐き出すところとして今まで積み重ねてきたので
そのひとに対する思いやりというものは失礼を承知の上で行使しません。

今の半分くらいのサイズのとき、
わたしはほんとうにむすっとした子だった。
テレビやらラジオから流れてくることにいちいち哀しんでいる子だった。
その当時幼女ゆうかいミノシロキンみたいな事件が流行ってて
うちはえねえちけーをまいにち流すから
ラジオから毎日毎日まいにちまいにち、
誘拐事件とか汚職事件(私はこれを鼻血を出しながら晴れた日曜の朝に聞いた記憶がある。お食事券ってなんだろう?って。なぜかその日は鼻血を出してもお母さんを呼ばなかった。)
みたいなのが報道されていて
私はそのたんびに
よのなかでは週に一度くらいの割合で「ゆうかいじけん」がおこっていて、
私もおおきくなったらそういうところでいきていかなくちゃならないんだ、って思ってなんだかすごくすごく悲しく思っていた。

当時から私は話すのが下手だったから、
「一拾百千万、とよく言うけれど
一から十までと
十から100までと、
100から1000までと、
1000から10000までと、
一つずつ間の数字の量が増えるよね。」
(「10-1=9」< 「10000-1000=9000」
ということ。たしか3歳か4歳くらいのとき。言ってること分かるかな。あたしはこれを古いエレクトーンの前で話した。)
みたいな話を母にすることを試みたけど伝わらずに諦めた。
あるいはその頃から話すことが下手になっていったのかも。

それ以来、
それ以来じゃないかもしれないけど
私は感じたことを誰かに話すのを悉く辞めた。
三人姉妹でひとりだけこんなわけわかんないことを言っていてはおかあさんに相手にしてもらえなくなるかも、と子供心に怖かったのだと思う。
(だから私は今でも一人っ子の人に惹かれてしまうし、同時に何もかも話したつもりで、「言いたいことは全部言った」といわれるのが苦手なのだ。私は何も話せていない。)
小学生とか、作文でよく褒められていたけれど(小1の夏前に転校するまでがいちばん正当に評価されていた)
それでも私は感じたことを人に話すのは辞めた。
「〜とおもいました」
と作文には書いていたけれど、それはそれなりに文章を書くのが同年代の子よりは得意だったから、今思うと適当に媚を売っているに過ぎなかったのかもしれない。

いずれにせよ
たくさんの感情と、沢山のかなしみとを、抑圧していた気がする。
被害妄想かもしれないけれどそう感じるので仕方がないのだ。
家の裏山でカッコウが鳴いた。夏なのに鶯が啼いた。
おかあさん!
って当時の私は言いたかったのだと思うけれど
祖父とはdiscommunication、母ともその数字事件以来だったし、
当時は幼稚園にも行ってなかったし、父は私が寝た後、夜遅くに帰ってきていたし。
(次の年福岡の幼稚園に行かされたけど、そこも結局幼稚だっし私自身も自分のなかの哀しみを悲しみとして捉えてないで、ただ単に泣いていたので多分私の悲しみは口をひらいたところで誰にも伝わらなかったと思う)

はじめてそこから開放されたのは16歳のときだったと思う
この人に会うために私たちって生まれたんじゃないかと本気で思ってしまうような、双子みたいなひとだった。
もう亡くなったというので、私がその人にそれを話すことはない。あるいは私の中で既に彼は死んでいるからもう会うことはないだろう。
1ヶ月、ただそれだけの記憶を記憶として扱うために、私は3年かかった。

二十歳の終りに、ものすごい勢いで口説いてくれた人がいた。
私はここまで感覚を重んじる人は見たことがなかったので、なんだか実はすごく怖かった。今思うとあのころの私はその人と会うたんびに目をまるくしていたとおもう。
それまで私は、自分の人間的な部分を誰かに認めてもらったことはなかった。
感覚もつよいし、頭の回転も速い。
きわめて「にんげんな」子だとその人は言っていたけれど、
今までそんなことを私に対して言う勇気のある人は誰もいなかった。
その事実を友人のカモシカ男に話したら「ものすごく」驚かれたけれど。
ベランダで煙草を吸いながら、彼は私に負けず劣らず目をまるくした。
そう思う人がいたとて、相手に対して言う勇気を持ち合わせた場合の確率など
そんなものになる。
むしろこの先資本主義的な社会で私も生きていかなければならないのに、
感情とか感覚的なものに左右されてしまう私のそんな部分はものすごく邪魔なものであると思っていた。
見返りを求めずに、傷つくんじゃないかとか計算せずに、
じぶんのぜんぶをさらけ出してきて
閉じこもった私が殻からでてくるのをゆっくり待ってくれる、
そういう人だった。
わたしはそんなひたむきさと
あいすることの集中力に動揺して、ただただ混乱して。
20年間以上そうしてきたひとりでいることのじかんと
ふたりでいることの時間とのバランスを捉えられるようになるまで
とても苦労した。
細胞が二倍に増えるのだ。混乱しないほうがどうかしているのかもしれない。

やっと最近、私はこのひとにだったら、抑圧してきた10数年分の私のたくさんの哀しみを話せるかもしれない、思い始めていた。
八月に富士五湖まで行ったあとあたりから。
今日こんなことがあった、こう感じた。と電話越しで話すのと同じように、
あの頃の私はそう感じた。こんなふうに悲しいとおもってたけど、
話せる相手が誰もいなかった。って。
ひとりでずっとそれを抱えてきてとてもつらかった、と。
10ねんぶんのそれを。
おそらく悲しみをはなすことができる日がきても、
「あのときこういうことがあってわたしは悲しかった」
という事実の羅列をするだけで
きっと悲しかった私の記憶は伝わらない。それは頭ではわかっている。
それは親密なひとを失ったときの悲しみが、
故人を全く知らない人に話しても決して通じることがない虚しさによく似る。
けれど重過ぎるのでそろそろ話さないと持ちきれなくなっていた。
哀しいことに、感覚に関する記憶力はおどろくほどよいから。
あのときそう感じたことが、ものすごくきもちよかった。
そのときのそういう言い方、あたしはすごくかなしいとおもった。

爆発的思考とか破壊本能がつよいとか転送メールとか、
「きみすごいメールをかくよね、もう理解できないんだけど」
と言われたけれど、答えは簡単
10年以上抱えてきたものが重層的に絡み付いていて、重すぎるだけだ。生理前なのもあるけど。
なにか傷つくことを言われるたび
それをこれ以上重くするまいと噴出しているだけだ。

私は結局考えていることも様々に重層的なようなので
(だから別れ話ひとつをするにも話が二転三転すると、
 最後のほうは怒鳴られていた)
ベッドにはいって朝までぬくもったり、
何度も肌を馴染ませたり、
おんなじものを食べて細胞を同化させることを試みたり
そうしてからだとか肌の馴染み方ではなく私の思考がまったくの無防備になるまで、私はものすごい時間と空間的ぜいたくを過ごさねばならなかったらしい。
10年以上かけて積み重ねてきたそれらを、
口にする勇気も無防備さも開放するちからも、
はじまりから相手に不信感を持っていたらしい私にはやはりなかった。
だから結局私がそれを話すことの出来る機会はまだいまのところ、きていない。
そのひとと積み重ねてきたそれを話す関係ができたら、どんなに素敵だろうと思う。
記憶力の悪さも放置も煙草も、相手の状況を思いやる力もわがままも、問題ではない、ただ私が思考の全てをゆるせるなら。
絡みついた記憶とこのひとにならまだ話せるかもしれないという淡い期待。
それが私を固執させる。また話が二転三転する!結局君はどうしたいの?と怒鳴り怒鳴られたけれど解説をするとそうなる。まだ話す努力のできる相手だと思うから。
お酒を飲みながら、そういう話はまたあったときに話してくれればいいといっていたけれど、
でも残念ながら一口のお酒で話せるならば私はとうに話せている。
それはその人がわりとすぐに感じたことを話せる性質みたいだからであって
私のほうは今まで一年半も話せなかったのにチョット会ったくらいで話せるものか。
だからいつでも私は、そうならわたしをだきしめてほしい、
という。たくさんのじかんをかけて。肌ではなくて記憶を溶かしてほしいから。
私が現在と未来の話をできるひとは他にもいるかもしれないけれど、
過去までともに生きることのできる相手が欲しい。常に今を生きて未来志向でいられるほど、私は強くないし話すのも上手くない。

「私にとって順正は、はじめてセックスをした男の子ではないけれど、こういう言い方をしていいなら、はじめてほんとうに身体をゆるした――すべてをゆるした――男の子だ。」(104頁)
結局私はまた、殻に閉じこもってしまった。『冷静と情熱のあいだ』のあおいみたいに。
「また黙る。君はけんかもできないのか。」
そのひとはマーヴみたいなひとだったから、きっとそう言っていたのだとおもう。
愛情の形は完璧な人だった。マーヴみたい。
きっと私はその日まで、彼にとってのたからものだったのだと思う。
形が変わったおそらく今も。
なんだかあのひと、マーヴみたいだ。
去年の8月4日に、ベニエとカフェオレをかじりながら思った。
白状すると、既にあのとき私の居場所はここではないのかもしれない、と思っていた。
たしか次の日は学部の皆と九十九里に行くという日だったと記憶する。
明日四時起きで九十九里浜行くんだよ、だから今日は会えない。
ヨコハマからオダワラまで二時間電車で無意味にごとごとと行って帰ったその日。
相変わらず私はマーヴとあおいの物語を読んでいた。
そしてその日私はその人にかなしいと、言おうとしていた。
このまま何もいえなかったら、私の居場所はここではなくなる。
壊したかったのではない。自分がとても哀しかった。
言いたいのになにも言い尽くすことができないから。
この先も言えるようになる自信がなかったから。でも言えるようになりたかったから。

側に居るようになったばかりのころ、私はその人に
「どうして思ったことを全部話せないの?」と電話越しにひどく責められたことがあった。(どうくつ参照)
感じたら言えばいいじゃないか、俺は全部言ってるんだから、
何か思ったのならそういってくれ。
けれど私は出来なかった。
君は思考の全てを話すことができるというけれど、
私はそういう人ではなかったから。私の話す記憶のひとつに、10の記憶が詰まっていることを知ってほしかった。絡みつくたくさんの記憶の苦しさをわかってほしかった。

私が見た怖い夢の話をしたい。かなしい記憶の話をしたい。
私が半分のサイズの頃も、いやきっと今よりずっと、
私は今と同じようなかなしみを抱えていた。
小さかったあたしの身体をはるかに越える重さで。
それを話せるまでの関係をつくれたらどんなに素敵だろうと思う。
そしてだましだまし続けていたのかそれともそうあるべくしてあったのか、
今もまた、そういう形に行き着いてしまった。

片手落ちの愛情。
体の表面はすこしたりない、へこみ具合。
彼の完全ではないところ、
そして私の不完全なところが上手に一致しないのだ。
(06.4.12)
へこみ具合。
私の足りないところと、彼の足りないところが上手に噛み合わない。
このままでは、私は私の孤独をうめつくすことができない。
けれど一人でまたこれを抱えなおすのは、もう嫌だ。
つくづくなにも言えなかった自分が嫌になる。

私があおいと違うのは、この関係が終わったとしても私には既に他に帰る場所が失われているということだ。
そしてひとつ文句があったとしたら、彼はこの本を読んでくれなかったこと。
ここに君の知らない私そっくりの女の子が描いてあるから、良かったら読んでみてよ、と。
思考のゆるせる相手。記憶を無防備に溶かしだすことのできるひと。
そう思うのは幻想なのだろうか。
会って6年目。やっとここまでもってきたのに。
もうすぐいえるかもしれないとおもったのに。
もう一度、思考を溶かす努力ができたなら、と思う。
ぜんぶ踏みにじるようなことを言ってしまってごめんなさい。
ぜんぶひらいて、私がひらいてくるのを待ってくれてありがとう。
たからものみたいにだいじにしてくれて嬉しかった。
過去形ではない。おそらく今もそうなのだと思う。
沢山手紙を書いてきた。おそらく今でも書けるとおもう。
君のここは苦手だけど、
でもとてもだいじなんだって。
君がわたしを大事にしてくれたからではなくて、
私がきみをきみとしてだいじにしたいから。
そうしてきてくれたように「そんなことはなんでもない」といえるようになれたら。
手放すのは簡単。あたらしいひとを探すのもかんたん。あたらしい環境をつくるのもかんたん。でも感覚が通じるという幻想。げんそう。げんそう。

でも、今はちょっと、疲れちゃった。

明日はきっと晴れるはず。
何食わぬ顔をして、私はたぶん英語の試験を受けるんだ。

おやすみなさーい