悪い予感 というのがよくあたる。

服を着てコートを羽織って、玄関先まで来るけれど

あ、ウォークマン忘れた

きょうはなんかありそうだから、

と二階の私の部屋まで取りに行く。

何かあったときに、耳をふさぎやすくするためだ。

そうして駅について、ホームに降りたら人が沢山溜まっていて

「じんしんじこのためダイヤが乱れております」

とりあえずでんしゃにのり、

用をすませて、帰る。

途中の駅で降りて、アンパンを買って、反対車線の電車に乗ってしまう。

そんな些細な、でもそれまでなかった失敗を、目をつぶってこらえる。

降りて、反対車線に出るために改札に定期券を通して、

太いヒールが踏み切りにはまらないように用心しいしい、

踏切を渡り、また改札に入って、トイレに入って、

そうして暖房の効いた待合室に入る。

改札の斜め向こうの花屋で花を買っていったら、

あのひとはどう思うかしら。

「ほんじつは○○えきにておきたじんしんじこのため、
 
 ダイヤが乱れみなさまにごめいわくをおかけいたしましたことを 
  
 おわびもうしあげます」

いきもかえりも、ずっとそのテロップ、ずっとその車内放送

もし仮に、

そこに花が供えられてたら、

そこにお地蔵さんとかお払いの何かが備えられていたら、

あたしは目をつぶって耳をふさいでやりすごさなくてもいいのかな

たとえば、その車内放送が

「本日は○○駅におきまして ひとつのいのちがなくなりました」

だったらあたしは目をつぶってボリュームあげて耳をふさぐ必要、なくなってたかな

そこでその事故のあった駅で買ったあんぱんをかじって思う。

これ今日中に食べちゃおう。

「いのちの形がかわったことよりも、

ダイヤが乱れたことに対してあやまりつづけられる」から私はかなしいのだろうか。

それとも予感があたったことが、怖いのだろうか。

先週も じんしんじこ のテロップとアナウンスが流れた

そこでわたしは試しに

「ひとつの寿命が全うされ消えていったことに

 わたしは他人を介してだけど、自分の耳と目で立ち会った」

だからそんなにかなしいものではないのではないか、

という考え方をしてみた。

でもやっぱりだめだった。