離れてまたいつもの生活に戻ったら、「なんか変わったね」みたいなことを少しだけ言われるようになった。
変化の原因はおそらくそのひとではないのだが。

香港出身の男の子にdo you wanna go out 〜?
と訊かれたことがある。ずいぶん前の話だ。
当時の私は彼との唯一の共通語も話すことが出来なかったし、
彼の母語が何語なのかも聞かなかった。
そもそも当時の私の中に、そういう「ことばに対しての発想」
は二次元でしかなくて、つまり分かるか分からないか、あるいは日本語か英語か。
複雑怪奇な色をしたシリアルの朝食を食べる彼を眺めたり(全寮制だった)、
図書館で本を読んでもらったり、ホールのソファで腕枕で映画を見たり。
当時は『A.I.』が流行っていて、その日もその映画が流れていた。
そういう感じで一週間ぐらい傍にいて、空白の日々のあと、飛行機にのって帰ってきた。
今は住む国も違うのでさっぱり会わないしもうその国に行くつもりもない。
ただ、もう少し当時の私に
かれと、かれのあまりにも大きすぎるその国でひとりで立っていることの痛み、
みたいなものを感じる度量
があったらよかったのになぁ、と思う。
噴出する行動は違法だったし、時々あまりにも悲しそうな顔をしていたから。
言語上のディスコミュニケーション、ではなくて
袖触れ合った多少の縁そのときとそのひとを感じるちから、というか。
まぁその当時の私も一生懸命考えていたんだけどね、それなりに。
感じてると考えるって違うかな。
うん、まぁ、いっか。

というようなことを生姜味のミルクティーを飲みながら
コーヒー屋に居る異文化カップルを見てふっ、と思い出した。
あちらは私のことを憶えているかも知らない。
でもこの23年の中に、そういう一週間があったことを潰したくはないんだ。
話したことなかったけど。

そういう意味では一年半より一週間のほうが大事なのかもしれない。