勇気を出して何か書きます

「どうして話してくれないんだ、
 責めているわけじゃない、
 話せないということはそれだけ心が離れているんじゃないのか?」

話すことが上手じゃないから、自分がそうであることをそれなりに知ってるから、だから書いてきた。手紙で、メールで。
でもあたしがそれまで書いてきたもの、
ちっぽけでも、その当時の私の存在を全て賭けて書いてきた(つもりだった)ものは、
ちっとも、これっぽっちも、
相手に伝わっていなかったみたいだ。
手紙の束は返せといったらあっさり返却された。
これだけ書いたのに、ちっとも伝わっていない。
そう思ったから、
だから燃やした。
それだけだ。けれど燃やしたこともまた、罵られた。
私は私が書いた文章を燃やしただけなのに。たしかに君に宛てて書いた手紙だけれど、君は返却したじゃないか。
それの一体何が悪いの?
きみは感じるチャンスがあったのに、ちっとも感じなかったじゃないか
あたしがかつてそうだったように
それほど私、文章力なかったのかしら。

「話せない」、というあたしを責めるばかりで、
「話さない私」をそれとして感じ取ろうという発想がないなら
心が離れていた云々じゃなくて
それだけ感覚が繋がっていない、
んじゃないかしら
ちがいわかる?

敢えて求めるなら、
「話せない」という私の表現手法上の選択も、
私の存在の仕方の一形態であって、
私が誰かに対して何かを伝える手段のうちの一種類であるということを
感じてほしかった。
「音がないのも、音のうちだよ」
って言ったみたいに。

感情に任せて罵ることばと、
その文章の中に潜められた、それでもこの人は私に対して伝えたいことがあるのだろう、ということば
それくらいは拾い分けて読むことはできる
それくらいの冷静さは、ある。おそらく。
ただし正直もう、へろへろ、
である。

もうちょっと敏感な人に、麻痺していないひとに、
あたしは会いたい。
金魚が消えたら、悲しめるひとがいい。

今日のお昼、太陽が出ているときに、
母親に「あかるいうちに帰ってらっしゃい」といわれた。
そのときは私ウン、と言ったけれど、
夜が今日もまた来ることなんて、そのときは想像もしていなかった。
だから今日もこれをノートに書いているうちに、
気がついたら夜になっていた。
だから今日も、明るいうちに、
家に帰るのを忘れた。


なんで書くってこんなに消耗するんだろう


大事にしたいからこそ言えないことは沢山あると思います。
壊したくないから相手に対して言いたくないことがあって、それの何がいけないのでしょうか。
コミュニケーションを怠けていたわけじゃありません。相手の力量不足を責めているわけでもありません。
現代文読解講義でもすればよかったのでしょうか。私の文章力がなかったのでしょうか。

ここに書いてあることがそれなりにわかったひと、
こえかけてください。
あたしもう自分の書くという表現方法に自信ありません。もう書きたくないです。
でもわたしはじょうずに喋れません。書けません。
噴出する手段を失ったとして、あたしの身体に果たして膿でもできて、くれるのでしょうか。あたしにそんな中味、あったっけ。