ピクニックをした。
断っておくがべつにその人を見下しているわけではない。
が、たぶん私はそのときの相手に会話の種類を合わせて、
自分の限界値(たとえば自分が普段から信頼している人と話すときとか)の70パーセントくらいにセーブして感覚や判断力、
ことばへの敏感さみたいなので話していたと思う。

だから結局、聞いてもらいたい事柄の上層か、あるいは周辺を話が浮遊していて、
そしてあんまり聞かれたくない質問もきて、時間が過ぎた気がする。
そのとき一緒に居た相手を見下しているつもりはないし、その人はいい人だと思う。
その人なりに、気を使ってくれているんだと思う。

そしてそういう時間はそれとして存在するから、
そういう時間も週一回くらいなら好きだけど、
でも夕方、さよならしたあと、
残ったのはお腹痛と、不特定な他人への恋しさだった。

ずれた隙間を埋めたくて、
こういうときは都合がよければ相手はわりかし誰でもよくて、
おそらく帰りに誰かに部屋に誘われたら、
ふらふらと付いて行ってしまいそうな錯覚に陥る。
(別に誰にも誘われないし実際はそうならないが)

そこを出たのは、
そういう恐怖を自分の中に留めてておく自信がなくなったから。
口が先か、身体が先か、何かしら外に出そうだったから。
というせいもある。
しばらく避けていたお肉とか油とか脂身を食べたせいかもしれない。

好きでもない人と寝てしまいそうで怖いんです。
なんて相談しても困るだろうし。
お腹も痛かったならピクニックは断ればよかったのかもしれない。
人恋しかったのだろうとも思う。

琴線に触れなさそうな人と『さみしいだけで「付き合」う』のはやめなきゃ、と思う。頭では。
悲しいけれどそういう切り口が私の頭には存在する。
そういう言葉をかつて言われたことがあるから、
さみしいだけで付き合ってたんでしょ。と。
だからほんとうに身体が勝手に、そうなりそうで怖い。
けれどもちろん、からだをかさねるくらいではあの隙間は埋まらないだろうと思う。
恐怖よりも大きな違和感の存在。
経験なんてしなくていい。

へんなものを跳ね返す力が欲しいとか上手くかわせるようになりたいとか、
電車でそういうことを言ったのも、
理由はそこにもあるのかもしれない。
自分の崩れやすさが怖くてたまらない。

相手と話しているうちに自分のなかのなにか、物事への感覚とか目に見えない事象への捉え方の自分らしさ、をセーブして、私の中の針が狂って、
身体も感覚も壊れてくばっかり。

いますぐ針の触れ幅の合う人がみつからなくともいい。不安定でもいい。
もっと敏感でありたい。
せめて、この文の意味がわかってくれるひとに会いたい。
この文「読めた」人と、時間を積みたい。



と、ここまで書いたけれど、
問題を描きすぎて浮き彫りになりすぎてしまった気がする。
ほんとうはこういう話がしたいのではないのかもしれない、
べつに好きでもない人と寝てしまうかもしれない恐怖について語りたいわけではない、
とも思う。
はなしがつたわるひとにあいたい。
きみのいってること、共感できるかは別として、とりあえず言ってることはわかるよ、
っていってもらいたい。
それだけ。