しばらく暇でしょ、海外旅行いかないの?

とよく聞かれます。
聞くたび、随分乱暴なこと言うなあ、と思います。
自分も言っていた記憶がありますが。

友達と行った焼き鳥屋はおいしかったけれど、
たぶん連日肉食は無理。
体をこれいじょう壊したくないので、
一人でいって怖い思いをするのが怖くて、
だんだん守りにはいっていく。
おかね、どこから出しているんだろう。
あらゆる場所が旅行会社の商品になっていて、
そこになにかしらの匂いが感じられなくて、
嗅覚かアンテナが弱っているのかもしれないし、体が万全ではないのかもしれない。
ひとりでうろうろしていて、お寺に不用意に入ってとりつかれたとして、
それを自分でどうにかするだけの手段がまだ見つかっていない、というのもある。なにもできず、ただ泣くだけな気がする。そういうことに気をつけなきゃ、ということをおしえてもらって、実感した。言葉は相変わらずなにもできない。自分の何かしらの細胞をわずかでもいいから変えてからでないと、外部の刺激で自分を変化させることはできない、そういう時期な気もする。休みとりにくくなるのに、時間あるのに、なんでいかないの?ってみんなに言われるけれど、当然ながらそこに価値基準をあわせる必要はない。それを説明したいとも思わないけれど、とりあえず、これを説明できなくて、まぁ説明してもわかってくれないんだろうなーと思ったりして、でも説明する元気がないかもしれないだけでほんとは話したらわかってくれるのかもしれないけれど、そういう何やかやで、わずかばかり苛苛する。笑顔で、みんなどこに行ってるんですかー。と返すことにしている。だいたいこうかえってくる。「ヨーロッパとか、アジアとか。」一体それはどこなんだ。

「家族で年に一度くらい海外旅行できる」
と自慢げに話していた某書店の取締役みたいな人間に、なりたくない。
という消去法の選択。
ああいうのにはなりたくない、こういうのにもなりたくない。
家族で海外旅行をすることが富の象徴なのか?それがイマドキの生活?ティーンエイジャーのファッション誌とおんなじブランドを欲しがるのとなんら変わりがないじゃない。
行って何をかんじるの?日本円の強さにはじめは「やすーい!」って喜んでいて、
だんだん辟易してくるのが目に見えているのに。

好きなスポーツキャスターの言葉
ひとつのことをみつけて極めてゆけば、自ずと道はひらけてくる
とおもうから
口ばっかりな気がして、体がついていかなくて、いまはやっぱり、苛々する。

このひとみたいに、きっと私も暴力ふるってるんだろうなぁ。と。
だからぞっとする。
かなしいおもいをしたなら、きっとそれだけひとのきもちがわかるようになるよ、
といってもらえたけれど、そうなのかしら。

ほんとうは海外に行くか行かないかも、ブランドを買うか買わないかと同じで、そんなのどっちでもいいんだ。お金とか時間があるかないかの話とは次元が違っていて。暇とお金があるなら行くの裏返しが、行かないのは暇とお金がないということ。そういう風潮。行かないという選択が今の日本では能動的選択なのではなくお金か時間がないのね、と言われるのと誰も疑問を発することなく直結しているのが自分の中でいやなだけ。

ところで、このもやもやを一言で言いあらわしている人がいて、すっきりした。「そんなものは全部○○だ」引用しないけど。
そのひとを好きだった高校時代の自分にちょっぴり自信がもてたのでした。