瞑想で心の癖を変える ヒマラヤ大聖者のシンプルな智慧 (幻冬舎こころの文庫)




珍しく誰にも相談せずに、自分でそこにお世話になることに決めた。
いつも行くヒマラヤカレー屋さんで10冊ぐらい読んで、
インターネットのオンライガイダンスを見て、一週間ぐらいで決めた。
自分できめて、そうさせていただく。それが7月20日。

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婚活出産など女性としての年齢的なあせりや世間のプレッシャー、
同じような恋愛の問題の繰り返し、親の老い、仕事の自己実現。
何年も同じような問題にざわざわし、
なんども同じようなタイプの人たちに振り回され、もうなんだか疲れてしまった。
人様の結婚出産などを素直に祝えない自分も嫌だった。
だんだん年老いていく両親を目にして、
いい年して結婚も子供もいない自分が親に申し訳なくて、そういうことができるような心の状態とは程遠くて、申し訳なくて、実家で親に顔を合わせるのが嫌だった。消えてしまいたかった。

昨年まで2年弱しばらくロシアで暮らしていたけれど、昨年帰国し、東京が苦しい。
ロシア語の勉強をしているのでいずれまた海外と日本を行ったり来たりしたいとは思っているけれど、
物理的に行き来しても心のザワザワは全く変わらなかった。
どんなに美しい光景を見ても、常に苦しかった。
このループから少しでも抜けたくて。
旧ソ連圏を沢山旅行して、たくさんの美しい光景を見続けてきたのに、
心のザワザワはちっとも落ち着かなかった。


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5月に父が手術をした。
手術はぶじに済んだけれども、麻酔から覚めない父を見舞って、
不安のあまり姉妹喧嘩をした。
わたしは三人姉妹の三女で、小さいころから両親、祖父母たち、姉たちにちやほやされてそだってきて、
若いから、小さいから、よくしてもらうのが、いろんなものをゆずってもらえるのが、当然だと思っていた。感謝が足りなくて、傲慢で、わがままだった。自己犠牲的で愛のない、見返りを求めた偽善だった。

姉と大喧嘩をして、思った。
こういう性格のままではいつか、相続争いになってしまう。

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2014年に自宅介護の末に祖母がなくなったとき、母は自分で、兄弟と、姉と、遺産分割をやってのけた。
仲が悪くはなかったけれども、ちょっと良い場所に土地があって、
(祖父はそういうところに土地を買う、先見の明がある人だった)
ただでさえ介護の末に自分の母親をなくしたかなしみのなかで、私の母は強くて実用的な人で、
ことことと死亡届を出しに行き、火葬許可証をとってきて、葬儀を(喪主は長男である兄に譲り)すませ、そして相続の整理をしていた。
みていられなくて、母が兄弟たちの私欲にまみれて傷ついていく様をみていられなくて、わたしはなにもできないくせに、毎日ひとりで勝手に母の分まで傷ついて、ハラハラして泣いていた。

結局私が連れてきた、司法書士のさかた先生と、行政書士の同期の方が、つつがなくまとめてくださった。おじたちも伯母も、二人の先生には会おうとしなくて、母が一人でぜんぶ先生に会って、事務的なことをぜんぶすすめた。
ぜんぶ終わったあとに、母はくたくただっただろうに、私を呼び出して、いくらかのお金をくれた。

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小さいころから「ひこうき」をしてくれたお姉ちゃん。
わたしは姉妹で憎むような、そんな生き方はしたくない。
自分の性格を変えなきゃならない、と思った。

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長く知っている易者のおじさんに、

自分がいつも同じような人を好きになってしまって、同じようにひどいことを言われてしまう。
それは20歳前後からずっと変わりません。どうしてでしょうか。

という相談をした。
ちょうどその時もものすごくひどいことを言われて、泣きながら電話をした。


「ボクがね、エキシャとして何十年も人様の相談に乗ってきた経験から言うとね。
結局、不倫とか、DVとか、そういうダメな恋愛を繰り返してしまう人って、
心の癖とか記憶とかトラウマとかと、自分の行動がべったり一緒になってしまっていて、そういう行動パターンがみについているから。
だからはるかちゃんが、出会う人を変えて、運命を変えていくには、
心の状態を俯瞰して、離れて、観察して、行動パターンを変えていく必要がある」と、そういう趣旨のことを、仰った。


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ちょうどその翌月、占い館に一緒に出ていた先輩と一緒に、松戸から御茶ノ水まで一緒に帰った。
というか彼女はJRに乗ればすぐ帰れるのに、なぜか私と一緒に地下鉄ルートで迂回して帰ってくれた。
「占い師一本で食べている人で、幸せそうな人は見たことがない」と語る彼女は、占い師だけでご飯を食べているひとで、世界中を楽しそうに旅をしながら生きている人だった。
彼女はとあるところで瞑想を時々している、と教えてくれた。とある場所に籠って、それはボランティアだけで構成されていて、10日間も何も喋らずに瞑想するそうだ。特に先生は居ないらしい。先生がいないことはちょっと恐ろしいことだと思った。
ただ瞑想って、そんなに近いものなんだ、意外とみんな簡単にやっているブームなんだ、ということは理解した。

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2011年におつきあいしていたひとはいろんな点で感情と記憶が強すぎて、言葉も強すぎて、結局、このままでは幸せになれないと、身体がひきさかれる思いでお別れした。それから、わたしはまるで”記憶の交通事故”に遭ったかのようになってしまって、結局その後誰ともおつきあいする気が起こらなかった。

ただしその後も同じようなタイプの暴言をふるう人を勝手に好きになってしまって、
同じようにひどいことを言われてしまって、同じようにふりまわされて、
同じように傷つくことは沢山あった。
思い返せば20歳前後から、生理前のホルモンバランスの影響もあって人にひどいことを言ってしまい、ひどいことを言われていた。

病院も漢方も食事もエネルギー的な事ももうほんとうにいろいろと試したけれど、特に何も変わらなかった。歳をとって女性としての身体が落ち着いてきたから少しましになったくらい。

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8年位前に、湘南の兄が、私に一冊の本をくれた。
大学時代に行っていた整体で働いていたお兄さんで、
なぜか大学前のスターバックスで遭遇したことがあって、
なぜかそこで連絡先と住所を交換してあった。
そのあと彼は仕事を辞めてインドに行く予定だと聞いていた。

帰国した兄から手紙が来て、鎌倉で整体を再開しているということで、
会いに行ってきた。
その時私は交通事故に遭っていて、身体がおもうように動かなかった。
ふたたび鎌倉のスターバックスでくれた本は、
瞑想に関する本だった。先生につかないで行う瞑想は、抑え込んできたもの、薬やお酒、たばこなどで誤魔化してきたもの、過去の記憶、いろんなものが噴き出して危険だということは、そこに書かれていて、知っていた。
著者の方の講演会が二子玉川のカルチャーセンターであって、講演会に行ってみたけど、その時はよくわからなかった。
兄弟子がインドから来ると言うのでもう一度新宿の講演会に行ってみたけれど、ただただ眠くなってしまっただけで、やっぱりその時もよくわからなかった。
それが7年ぐらい前の話。

それで
改めてその方の本(冒頭が改訂版)を買って、
いろいろと読んでみたら、こういうことが、書いてあった。

「心はくっつく性質があります。」

死ぬ時に持っていけるのは、本来のあなたは魂であって、心がそこにへばりついているから同じ行動パターンから抜け出せない。さまざまな心の状態や記憶やトラウマは、あなたではない。

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後年思い返してみると、
小さいころから読んできた、水木しげるさんや手塚治虫さんが描いていた世界だった。

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ひとまわり離れた従姉妹たちが、次々と婦人科の手術をした。ずっと独身で、手術の結果どのくらい子宮や卵巣を切除したのか 、子どもは産めるのか、母は伯母に「怖くて聞けなかった」そうだ。


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かみさまや、両親、祖父母たちからいただいた自分の情緒の豊かさで、繊細さというか勘のするどさで、悲しい思いをたくさんしてきた。

とくに東北に地震のあった年はたくさん泣いた。
その時におつきあいしていたひととは身体が引き裂かれるような思いでもうこういう人とは生きられないと思ってやっとの思いでおわかれした。なきながら選んだこっちの道。

小さいころから、じぶんの祖父のように穏やかなひとのお嫁さんになって、自分のおばあちゃんみたいに、孫が10人くらい欲しかった。

そういう人を探して、出会えたとしても大事にしていくのに、自分の傲慢で被害妄想的なめんどくさい性格と、7,8年経っても交通事故の後遺症で思うようにならない身体、酷いPMS。その状態では大事にできる自信はおろか、出会える自信もなかった。このままだとずっと同じような雲り空の日々が一生続くのは目に見えていた。自分の行動の悪い癖や思考の悪循環をもったまま、こういう状態で30年生きてきたことを振り返ると、タナボタ的にかみさまからいいものがふってくるのを待つのは傲慢だった。旧ソ連圏いろんな教会や、旅先の寺社をめぐったけど、かみさまとはつながれなかった。
自分ではもう無理だと思った。

だから知りうる限り一番いい先生のところに通わせてもらうことにした。

ここにつらつら書いたような問題にふりまわされて小さくなって消えてしまいそうになりながら生きるのではなく、
自分の情緒の豊かさを発揮して。
豊かさがわかちあえるパートナーに出会って、
色んな話ができる仲のいい夫婦になって、
じぶんも相手も、神様にもらったものを最大限発揮して。
そういうふうに生きられるように、なりたい。