カテゴリ: OL時代

rectangle_large_type_2_51c84adebda6d02a655726b8f532684b



■成田空港のひとめぼれ

■アエロフロートに電話する

■死なない程度に息をする日々

■「私が惚れたんです!!!!!」

ーーー

OLを辞めたきっかけは成田空港での、夏の終わりのひとめぼれだった。

2年ほど前まで、OLだった。

おそらく絶対潰れない種類の会社に勤めていた。

先日ロシア語の恩師K先生にお目にかかったところ、「まさかハルカさんが会社を辞めるだなんて、おもっていなかった。」と言われた。
「会社を辞めたい辞めたいと言っているのは知っていた。でも本当に辞めるなんて」と。

最近わかったのだけど、この恩師はどうも私を実物以上に脳内美化してくださっているところがあって、
当時私のことをだいぶコンサバティブな女の子だと思っていらしたような気がする。美化。

それでロシアに住んでいると、けっこう情熱的な日本人と知り合う。能動的に来ている人が多いので、もうほんとうに情熱的だったり、センスがよかったり、エネルギッシュだったりする。
片想いのロシア美女を追って、会社員をやめて、移住したというひと。フィルハーモニーが好きすぎてロシアに移住してしまった、というひと。

みなさん情熱的だなあ、と感心していたけれど、思い出してみたら自分もきっかけは同じようなものだった。

■成田空港のひとめぼれ
二年前の夏、ちょうど今頃、会社の夏休みを9日間もらって、モスクワに飛んだ。
モスクワに住んでいたミホさんとシェレメチェボ空港で待ち合わせして、
そのままアルメニアの首都エレバンに飛ぼうといっていた。

成田空港でモスクワ行きのアエロフロートにチェックインする。
チェックインカウンターに並ぶ列のその前に40歳ぐらいの男性がいた。
カバンといい、シャツといい、なんだか味がある。

なんとなく声をかけたい気がして、
でも用もないのに声をかける自分は変な女なんじゃないかと思って(今思うと当時の自分も十分に変な女だったのだけど)、
声をかけそびれたまま、チェックイン。
同じモスクワ行きの飛行機で、二列前に座っていた。
約10時間後、モスクワについて、トランジットの手続きのカウンターで、
質問をするふりをして、やっと声をかけた。
そのままチューリッヒに飛んで、近代建築を見て回るそう。
自分は建築士である、と名乗った。建築士なんて、自分とは別世界、夢みたいな世界の人である。
彼はその日のうちにトランジットで、私はその日はモスクワ泊で、そこでそのまま別れた。

名刺ぐらいもらっておけばよかった。成田空港にいたぐらいだから東京の人かもしれない。そうしたらチューリッヒの話も、建築の話も、聞けたかもしれないのに。どんな人かもわからないのに、そもそも独身かどうかとかもわからないくせに、なぜだかわからないのだけれど、猛烈に後悔した。

■アエロフロートに電話する
アルメニアは美しかった。
その数日後モスクワに戻り、ミホさんに連れていってもらったバレエ「白鳥の湖」は美しすぎて、
幕が上がって一瞬にして涙が溢れた。
しかしやっぱり成田空港事件の後悔は抜けなくて、帰国しても二、三週間自分を責めたと思う。無駄だと分かっているのに、アエロフロートに電話までかけてしまった。そうする以外に閉じた自分を呪わない方法がなかった。あのステキな人のお名前は。アエロフロートの東京オフィスに、ロシア語で話したら、電話の向こうのロシア人のお兄さんは、笑うこともなく結構真剣に話を聞いてくれたのだけど、もちろん顧客情報など出してくれるはずがない。(ちなみにアエロフロートは、たしかどこかの雑誌の国際線安全ランキングに日系のエアラインを抑えてランクインしている)

自分のいろんな感情をおし殺して、話してみたいと思った人に声もかけられず、
まいにちまいにち、職場ですり鉢のように気を遣って、
金魚鉢みたいな執務室で、死なない程度に息をしている自分を責めた。

あの頃は私の6年強のOL時代で一番、職場の人間関係に恵まれていたけれど、
隣の方が破裂しないように気を擦り潰し、
定期的に勃発する問題に頭を下げ続け、
私に指名でわざわざ電話をくださる地方の社員さんたちには、
会社の管理部門として冷たい回答をしなければならない。
いちばん話をしたい上司は薄暗い壁の向こうで、
直属の先輩はいい人たちだったけれど、
まいにち忙しかった。

それで半年後、会社をやめた。

会社の後輩がライスコロッケを抱えてウチまで会いに来てくれて、私が作ったビーフストロガノフをむしゃむしゃ食べながら、よく(安定した会社を)辞める勇気がありましたね、と言っていた。

なぜ安定した会社をやめたのか、他にも自分を動かした要因はその前年からその年にかけて怒涛のように沢山あったのだけれど、直接のきっかけは上述のとおり。

■「私が惚れたんです!!!!!」
私のロシア語の語学学校の恩師、タキコ先生は非常に美しい女性で、20歳上のご自身の恩師と結婚された。

旦那様は非常に雰囲気のある方だったそうで(語学学校の所長なのだけれど、私が学校に通い始めたころは既にお亡くなりになっていた)、タキコ先生はその後、ご自身のご結婚について、「私が惚れたんです!!!!!」とみずから周囲に言い切ったらしい。

先日、この学校の大先輩、第一線の通訳の女性にお目にかかった。
60代半ばだと思うのだが、美しい赤い口紅に、よく似合うハイヒールとミニスカートでいらっしゃる。なぜこの学校の関係者は美女ばかりなのだろうか。

渋谷でお昼をご馳走になりながら、「今日夜にデートに誘われているんです」という話をしたら、なぜだか私は先輩に真剣に、「そのままお泊まりできちゃった結婚」を勧められた。語学の習得には終わりがないので、本当にプロを目指すなら、女が冷静に人生設計をしていると、婚期を逃すらしい。勉強はいつでもできます、と。外国語ってなんて恐ろしいんだろう。(ちなみにその人とはすぐに破談になった)

そしてもう一つ、アドバイスをいただいた。
あなたはタキコ先生の弟子なんだから、自分が能動的に愛せる人と、一緒になりなさい。

あの日シェレメチェボ空港で、あのお兄さんに名刺をもらっていたら今の私はいないので、それで良かったのかもしれない。

ロシアでしばらく暮らしてぼうっと毎日広い空を見上げて、氷りついたネヴァ河をまいにち眺め、いろんな町に雑念が飛ぶほど飛びまくって、そうしてやっと、人生って美しい、と思えるように、なってきた。

感情を押し殺して生きている時間など、なかった。

(2016年)

どっかにかいたけれど
前職で、
あるとき会社にコンサルが入って
『「会社」と「人事部」の「あるべき姿」を話し合おう!』
とだいたい22時すぎまで延々と話し合った。
所謂チーム・クレドというやつか。
人事部所属だったのでコンプライアンス違反なことはせず、残業代もつけてくれた。
けれど当時わたしは実家に住んでいたので
22時まで会社に居ると、
自宅の最寄り駅から終バスに乗れなかった。
女の子が一人で1時間近くハイヒールで歩いて帰るのには危ないだろう、田舎の畑道。
市内だが夏には無人の野菜販売所が出る。
話がそれたが、地元駅からタクシー代を自費で払って家に帰った。
もちろんタクシー代は出ない。
言ったら当時の上司は出してくれたのかもしれないけれどそういうことを交渉する体力を捻出するのすらなんだかもう、ばかばかしかった。
これをクラコフで思いだして、思った
「あれは宗教か、一種の洗脳だったんだ」
あるべき姿というのは
心の平穏があって、
夜になったら家に帰れて、
質素でもあたたかいご飯を「家族と一緒に」食べられる、
それだけのことである。

「自分が今事務だから異動先の地方支社でも事務が出来るに違いない」と彼女は言ったのだけれど
いま正社員の人件費一生懸命削っているし、
売り上げ高の多い関東圏だから正社員が事務しているわけで
どんどん事務を非正規にきりかえようとしていることとか、
やっぱりふつうの人は知らないわけで 
じぶんがそういう仕事をしていたわけではないけれど、
横で上司がよくそういう話をしている空間にいて
ちょびっと中枢を覗いておいて、よかったと内心思った
彼女は今営業の知識がなくても、
彼女は未婚で若いのだから営業に配属するか事務にするかは彼女の過去の経歴ではなく人事部と所属長が決めることだ

■成田空港のひとめぼれ
■アエロフロートに電話する
■死なない程度に息をする日々
■「私が惚れたんです!!!!!」
ーーー

OLを辞めたきっかけは成田空港での、夏の終わりのひとめぼれだった。
2年ほど前まで、OLだった。
おそらく絶対潰れない種類の会社に勤めていた。
先日ロシア語の恩師K先生にお目にかかったところ、「まさかハルカさんが会社を辞めるだなんて、おもっていなかった。」と言われた。「会社を辞めたい辞めたいと言っているのは知っていた。でも本当に辞めるなんて」と。
最近わかったのだがこの恩師はどうも私を実物以上に脳内美化してくださっているところがあり、当時私のことをだいぶコンサバティブな女の子だと思っていらしたような気がする。
ロシアに住んでいると、けっこう情熱的な日本人と知り合う。能動的に来ている人が多いので、もうほんとうに情熱的だったり、センスがよかったり、エネルギッシュだったりする。片想いのロシア美女を追って、会社員をやめて、移住したというひと。フィルハーモニーが好きすぎてロシアに移住してしまった、というひと。
みなさん情熱的だなあ、と感心していたけれど、思い出してみたら自分もきっかけは同じようなものだった。

■成田空港のひとめぼれ
二年前の夏、ちょうど今頃、会社の夏休みを9日間もらって、モスクワに飛んだ。
モスクワに住んでいたミホさんとシェレメチェボ空港で待ち合わせして、
そのままアルメニアの首都エレバンに飛ぼうといっていた。

成田空港でモスクワ行きのアエロフロートにチェックインする。
チェックインカウンターに並ぶ列のその前に40歳ぐらいの男性がいた。
カバンといい、シャツといい、なんだか味がある。

なんとなく声をかけたい気がして、
でも用もないのに声をかける自分は変な女なんじゃないかと思って(今思うと当時の自分も十分変な女だったのだが)、
声をかけそびれたまま、チェックイン。
同じモスクワ行きの飛行機で、二列前に座っていた。
約10時間後、モスクワについて、トランジットの手続きのカウンターで、
質問をするふりをして、やっと声をかけた。
そのままチューリッヒに飛んで、近代建築を見て回るそう。
自分は建築士である、と名乗った。建築士なんて、自分とは別世界、夢みたいな世界の人である。
彼はその日のうちにトランジットで、私はその日はモスクワ泊で、そこでそのまま別れた。
名刺ぐらいもらっておけばよかった。成田空港にいたぐらいだから東京の人かもしれない。そうしたらチューリッヒの話も、建築の話も、聞けたかもしれないのに。どんな人かもわからないのに、そもそも独身かどうかとかもわからないくせに、なぜだかわからないのだけれど、猛烈に後悔した。

■アエロフロートに電話する
アルメニアは美しかった。
その数日後モスクワに戻り、ミホさんに連れていってもらったバレエ「白鳥の湖」は美しすぎて、
幕が上がって一瞬にして涙が溢れた。
しかしやっぱり成田空港事件の後悔は抜けなくて、帰国しても二、三週間自分を責めたと思う。無駄だと分かっているのに、アエロフロートに電話までかけてしまった。そうする以外に閉じた自分を呪わない方法がなかった。あのステキな人のお名前は。アエロフロートの東京オフィスに、ロシア語で話したら、電話の向こうのロシア人のお兄さんは、笑うこともなく結構真剣に話を聞いてくれたのだが、もちろん顧客情報など出してくれるはずがない。
自分のいろんな感情をおし殺して、話してみたいと思った人に声もかけられず、まいにちまいにち、職場ですり鉢のように気を遣って、金魚鉢みたいな執務室で、死なない程度に息をしている自分を責めた。
あの頃は私の6年強のOL時代で一番、職場の人間関係に恵まれていたけれど、それでもいちばん話をしたい上司は薄暗い壁の向こうで、直属の先輩はいい人たちだったが、まいにち忙しかった。
半年後、会社をやめた。
会社の後輩がライスコロッケを抱えてウチまで会いに来てくれて、私が作ったビーフストロガノフをむしゃむしゃ食べながら、よく(安定した会社を)辞める勇気がありましたね、と言っていた。
なぜ安定した会社をやめたのか、他にも自分を動かした要因はその前年からその年にかけて怒涛のように沢山あったのだけれど、直接のきっかけは上述のとおり。

■「私が惚れたんです!!!!!」
私のロシア語の語学学校の恩師、タキコ先生は非常に美しい女性で、20歳上のご自身の恩師と結婚された。
旦那様は非常に雰囲気のある方だったそうで(語学学校の所長なのだけれど、私が学校に通い始めたころは既にお亡くなりになっていた)、タキコ先生はその後、ご自身のご結婚について、「私が惚れたんです!!!!!」とみずから周囲に言い切ったらしい。
先日、この学校の大先輩、第一線の通訳の女性にお目にかかった。
60代半ばだと思うのだが、美しい赤い口紅に、よく似合うハイヒールとミニスカートでいらっしゃる。なぜこの学校の関係者は美女ばかりなのだろうか。

渋谷でお昼をご馳走になりながら、なぜだか私は彼女に真剣に、「できちゃった結婚」を勧められた。語学の習得には終わりがないので、本当にプロを目指すなら、女が冷静に人生設計をしていると、婚期を逃すらしい。勉強はいつでもできます、と。外国語ってなんて恐ろしいんだろう。
そしてもう一つ、アドバイスをいただいた。
あなたはタキコ先生の弟子なんだから、自分が能動的に愛せる人と、一緒になりなさい。
あの日シェレメチェボ空港で、あのお兄さんに名刺をもらっていたら今の私はいないので、それで良かったのかもしれない。
感情を押し殺して生きている時間など、なかったのだ。

職場のある駅まで始業時間の50分前に行って、近くのロッテリアで予習。けなげだったわたくし。それにしても2012年のミール閉校前後の私の記録をひっくりかえすとけなげすぎて自分でもうるうるとする。
しかしこのハブローニナのテキストの内容をよむと
今もあまり進化していないような気もしないでもない。。あれから私は一体ナニが進化したんだろう、か?

支社長(新卒時代の大ボス)が引退されるとき
私に向かって
<おまえ、相手が上司であろうと役職者であろうと、言うときゃ言うじゃん、俺そういうの好きだったんだよ>
と仰っていたのを思い出した 
いつも相手に喧嘩を売る必要はないが平等性と技術力の向上は必要。

26日
日記。
美容師Tさんのご栄転はおめでたいのだけれど、シャンプー台の高さが違うだけで緊張して涙ぐむ私はこれからどうしよう。。と鏡をみてしょぼんとした。むしろブローしなくても笑って許してくれる美容師さんは彼だけじゃないかとおもう。肩凝りがひどいですねえ、とかブローをちゃんとしないといたみます、とかこれからデートですか、とかお金を払ってまで怒られたり詮索される空間が昔から苦手だったんだ。彼はうるさいこと言わないで、行くだけで喜んでくれるもん。うーんこまったこまった。


25日

日記
埋め立て地の閉塞感に3週間ほどがちがちだったので、日曜日に緩めてもらって、ひまし油湿布をして、週末やっとからだが反応した。
同期の子と社食。私はリラックスすると主語とか話題をすっ飛ばす癖があるのだけれど、珍しくそんな感じだった。きちんと反応をくれる人なので癒し系。
ちょっと意識して、これまでの(強運な)人間関係で培った情報を回す。きょうは自分の優先順位を試される出来事がどどどっとやってきて、すぐにできるところだけ回答したら、回答率が70パーセントだった。反省。

7年前に担当していたお客様に6年ぶりに年賀状を書いたら、西洋の料理をいただけることになった。もちろん写真はない。ナントカのポアレとかインカの目覚めのナントカとかナントカのバロティーヌとかなんとかのヴァンブランソースとか。むしろインカの目覚めしかわからない。世の中には知らないものがいーっぱい。身軽になるといろんな美味しいものがいっぱい。そして地震のあった年以来お目にかかっていなかったけれど、プライベートも復興して、元気そうでよかった。

12月末、
ことしの新入社員の女の子たち数名(22歳)に告白をされた。
じつは好きでした
一緒にご飯をたべに行きたいんです!
で、うちまでストロガノフを食べにきてもらいました。
でも別に相談があるわけでも話があるわけでもないそうで
彼女たちは黙々と、しかし嬉々として食べ
私は延々と日本茶を飲ませ
芋を食べさせ
先輩とおんなじ空間にいるだけで幸せ、だそうです
なんでわたし新人女性の人気NO.1だったの?

仕事では全く接点のなかった富山の彼女に聞いたら
前髪切ってみんな気付いてるのに言ってくれないけど
上京して寂しかったのに
カウンター越しに
前髪いいね!
って言ってくださったから
だそうです。
へえ。
また食べにおいで。

期初面談で、誉められた\(^o^)/
■対応力
■対話力
■課全体の信頼性の向上
■平等性

↑このページのトップヘ