カテゴリ: 大学時代

スーパーのレジにホッソーそっくりのおばさんがいて
仕事が実直で正確なので彼女が居れば絶対彼女の列に並ぶのだけど
今日ちょっと私が気になってた子ども用のおもちゃを「集めてる?」と言って、くれた。500ルーブル買うと一個くれる仕組み。
吸盤がついてる。
横で見てた警備のお兄ちゃんが「(彼女大人なんだから)あつめてるわけないじゃん」って突っ込んでたけど、うれしい。
やっぱりあのおばちゃんダイスキ。
ホッソーというのは高校時代の私の母校のアイドル。
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うちのおじいと同じだけ生きるとして

あと25,000日

1日一冊本を読むとして
あと25,000冊

あれっ、これだけ!?


あの図書館の蔵書は一生かかっても読み切れない(´д`)


だからこそ

選ばねばならない

哲学があらねばならぬ

ことばのおもみ
いのちの重み

でも地球も文化もぶっ壊して寿命を縮めるプロジェクトに関わっている人は
その自覚をもってほしいとおもいます。
気付いたところでそのシステムにして仕事として組み込まれている以上、たいして抗えないかもしれないけれど、
そんなことも気付かない勘違いが多すぎる。
あら、ことばがきたないわ。

崩壊。
からだも。目に見えないそれも。
タカがはずれた、というのはこういうことを言うのでしょう。
自分でも自分の思考がわけわかりません。
目に見えないものなので修理するのには時間がかかるよ、
とキイロイトリの修理屋さんがめがねのおくで言いました。
だそうです。
時間をかけねばならないのはわかるのですが
ちょっと疲れました。
はやくこれをすっとばして90歳くらいのおばあちゃんになりたいです。
でもこれを修復するなり乗り越えるなりしないと、あたしは罰としてかわいいおばあちゃんになれません。
ごめんなさい。
ここに来てまたゆくひとに告げることば。
ひととひとは弧をえがいて交わりやがてまた彗星のようにどこかへ流れてゆきます。
そのかなしみを伝えようと、
あたしのなかのよいものも、きたないものも、ぜんぶぜんぶうけとめようとしてくれたその人にカードを作ってみました。
諳んじて久しい住所を記し、いつもの鳥の切手を貼って、
明日ポストに入れるつもりです。
しかし心身弱りきっているらしいそのひとに、そのことばまで届くかどうか、もうわかりません。
だいじなところばかり言葉が足りなくて、ごめんなさい。

春がそこまで来た
秋から冬に代わったらずっとそのままだと思っていたのに
この間まで根っこが出ないと嘆いていたはずなのに、きちんと花が咲いてしまった
10年後も20年後も、私はそんなことを言っているのかもしれない
1ヶ月ほど、外国に行ってくる
日本から逃げたかったから
日常の自分への煩わしさから逃げたかったから、あらゆるすべてから逃げたかったから。
でもどうしようもないほどにあらゆる言葉が話せなくて、
こんな状態のあたしは果たして一人になって大丈夫なのだろうか。なってしまうのだろうか。
手を触れられただけで泣いてしまう私は、それまでどれだけ支えてもらっていたのかすっかり忘れてしまっていた。
九官鳥
閑古鳥
鳥が啼く
猫が鳴く。

熱帯のねっとりした気温の中で南国の果物を買うならば、生魚とか裂いたばかりの鳥の肉とか、そういうのがハエとか血とか熱気とかでごっちゃになった市場で買うのが一番おいしい。と思う。(自信ないけど)巨大スーパーマーケットとか、百貨店とか。そういうところで買っても高いし冷え切ってるし、興ざめする。

市場とか、露店とか、その土地の空気と産物と人間の気性とが上手に混ざり合う。そうなるべくして出来上がった固有の町並みが、どの国にもどの地域にも、ちゃんと存在した。
台北の中央駅付近にはセブンイレブンが同じ通りに2つも3つも、
バンコクに立ち並ぶ夜店の中に白々しく浮かぶファミリーマートの白い光。
パリにもたしかそごうがある。
やがて世界の街は、同じ容貌になるのではないかとちょっと恐ろしい。

多くの国の観光業が、もはや過去しか追って(負って)いない。現代のこの国を見て、と自信を持って見せ付けてくれる地域はこの世界にどれだけ残っているのだろう。日本も然り、外国からの観光客に自信を持って見せられるのは京都の町並みとか、城とか、大仏とか。そのようなものはもはや過去の遺物であって、これらに根付いた生活は我々はとうの昔に棄ててしまった。国会議事堂とか東京タワーとかサンシャインシティを喜んで見物に行く外国人観光客はあんまり見たことがない。国会ならヨーロッパのそれのほうがずっと見事だし、東京タワーよりやっぱりエッフェル塔だろうし(未だに私のエッフェル塔型ピアスは「東京タワーでしょ」といわれるが)サンシャインよりももっと高いビルが今はクアラルンプールとか台北に、ある。現代の日本が持っているのは習得と模倣によって得た外国の風貌。過去の保存とそれへの固執、一体いつまで持つのだろう。模倣は自己形成のために存在したはずだ。

ドラえもんも鉄腕アトムも、未来を造った張本人。「造るだろう」ではなく「造った」という完了形。あれを読んで育った世代がおとなになって都市計画とか建築物とかつくれるくらい偉くなったころ、彼らはきっとあの本の中に描かれた町並みをイメージし、再現するはずだから。

<いったい誰の人生が間違っていないのだろう? お前の人生は間違っているとかいないとか、 誰に確信を持って断言することができるのだろう?> (『やがて哀しき外国語』p.157)

友達とお昼を食べた。ちゃんとしゃべったの久々だったんだけど。やさしさについて。曰く、「優しさってもっと尊ばれてもいいんじゃないかな」 今朝の地下鉄、隣のカップル(?)。法科大学院生らしい。六法の話とか、お昼どうする?夕ご飯どうする?とか。 ひとつだけ空いた席に男の子の方がさらりと座った。一応ことばで聞く、ただそれだけでも優しさって伝わるんじゃないかなぁ、横の私は思ったりする。そういうために言葉は在ってほしい。 どちらが座るかっていうのは彼らの勝手だしひょっとしたら彼らの間で暗黙の了承とか目配せとか、私の聞こえないところでの会話とか、あったのかも。だからべつに座った彼を非難しているわけではない。 そういう光景の一部を偶然みかけて、私のなかで何かが動いた。膨大な六法を読み解く情報処理能力がなくたって、ひとは幸せになれる。ただそれだけの話かもしれないけれど。

桜散らしの雨の朝、通勤ラッシュに揉まれてうんざりしてたらなんと先生の方は毎時間この授業だけのために名古屋からいらしてた。新幹線通勤??(!)南山大から出張してここの学生にナショナリズムと宗教を半年間講師として教える、とか。もぅエネルギーが違う。去年お世話になった英語しか喋らない講師のヨーコ先生はここ大学の専任教員になるのが夢だとか。去年私に川端康成と泉鏡花を教えてくれた宇都宮大学のK子先生は、おそらく90パーセントの学生が一晩で書き上げてきただろうレポートに満足を示していた。なんともはや。世間様から頂く眼と、実際の大学生活に温度の差を感じてしまうのは私だけか。 教職課程の申請をするためだけに諭吉先生が三枚飛んだ。国立大出身の姉は聞いてびっくり。なんで私大ってそんな金かかるの? 大学卒業してから教員免許取ろうとすると、一単位五千円〜つまり免許取るまでに100万くらい飛ぶことになる。だからお金の面でも労力の点でも、やるなら今しかないんだよ、なんて姉に説得されてみた。教師になりたいわけじゃないんだけど(私が教員になったら子供がかわいそう)日本語教えるスキルがほしいんだ。→外国で日本語を教えたいのなら教員免許があったほうが就職に有利→じゃあやってみるかーというただそれだけの動機。挫折ならいつでもできる。文学部出てなんも資格ないのは悲しいかも。こんなんでいいのだろうか。それとも単なる四月病かもしれない。 あ、この投稿記事で400件目。

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