カテゴリ: ロシア語とロシア語圏の日々

職場にいらしたロシアからのお客様にいただいたアゼルバイジャンのチャイがほんのり甘くて香り高く最高に美味しいので先輩とがぶがぶ飲んでいる、もはや先輩は茶葉をマグカップにつっこんでそのまま抽出されている。そして某地域の紛争について先輩が仰る、「人はどうして憎しみあうのかしら」。




「プロになってから楽しかったことなんてない」(橋本八段)

将棋の橋本崇載八段が好きで、ペテルブルグにいたときには特によく彼の動画など見ていた。しばらく彼のお写真を携帯の待受にしていたくらい好きなのだけれども、ほとばしる彼氏感に私のほうが耐えきれず、もとの待受に戻した。

そういえばロシア語を勉強するのが辛くて苦しかった。

それはほんのちょっとロシアに関わる仕事をしている今でもそうで、ロシア関係の私の同世代といえば優秀な方が大勢いらして、

あとロシアではないけれど、渡辺明三冠は私と同世代で、世代が近すぎて、20歳前後の頃流行ったBlogを今も続けていらっしゃるのがすごく親近感、

こうした優秀な人材が世の中には存在しているのに私のようなモノリンガルの人間がヒイヒイ言いながら外国語を勉強する意味みたいなのを最近悩んでいた。

この橋本八段の記事を読んで思い出したけれども、

私のロシア語の恩師K先生もプロになられてから10年以上ずっと辛かったと仰っていたし、今でも辞めようかと思うこともあるとおっしゃっていたけれども、その一方で、その方は仕事が楽しくて仕方ないという笑顔をされるのが、20代だった当時ドメスティックな会社に勤めていた自分にはもう本当に憧れだった。(この恩師の笑顔は本当に素晴らしすぎて、ペテルブルグにいた頃一時期PCの壁紙にしていたくらいで、ルームメイトに彼氏?と聞かれたことがある。)

自分は思い出せる限りずっと、悩みながらロシア語を勉強していた。

最初の入門テキスト『標準ロシア語入門』(白水社)を一通り丸暗記したら、ロシア語を続けるかまた考えようと思っていた。でもそれを5回ぐらい繰り返してもらって、お世話になっていた代々木のロシア語の私塾・ミールロシア語研究所が閉校した。

多喜子先生やK先生が熱心に面倒をみてくださったからこそ勉強していたタイプだった私はその後茫然自失としたあまりに、OLを辞めて、彷徨ったあまりにペテルブルグでしばらく人生の夏休みみたいにぼんやりと過ごした。

それであまりロシア語ができるようになったわけでもなく帰国してきて、なんとなくロシア語や語学、ことばに関わる仕事をフリーランスだったりライターだったり、非常勤を掛け持ちしたりしつつ、ロシア語とロシア語圏に関わる人たちと沢山会えるようになって、なんとなく、自分がずっと興味があったところに夢が叶いつつあり多少関われるようになってきて、味方してくださる方、ご飯をごちそうしてくださって話を聞いてくださる諸先輩方、ロシア語を協力したいと申し出てくださる恩師たち、そういう人に囲まれるようになって、それでやっと心の安定を保てるようになった。

20代のころは絶対潰れない種類の企業に勤めていて、毎月手取り10何万かの固定給を安定的にいただいていて、年に2回のボーナスをいただいて、でもそこには自分の心の安寧はどこにもなかったように思う。

それでこの禍の中、協力してくださる方が現れて、再びもう一度『標準ロシア語入門』を見直してみたら、「ミール」が2013年に閉校してこの7年ほど、私がいろんな意味で彷徨っていた間にまた苦しんでいたぼんやりとした疑問がそこに全部書いてあった。

勉強するのは辛いのだけれども、3歳の頃から『世界!ふしぎ発見』を見て『なるほどザ・ワールド』を見ていた自分、強烈に外国と外国語に憧れを持っている自分が、30代になった今また外国とは一切無縁のドメスティック企業にお勤めできるかといえば、それはやはり否で、そういう意味で勉強するしかなくて、人生はやっぱり一方通行のように思う。

自分はぼんやりしているあまりに、ロシア語の格変化の体系をぼんやりと理解するのに10年かかったように思う。

昨日はロシア語を勉強している人たちが四人集まってくれた。ロシア語とロシア語圏をめぐる世界の話をすごく一生懸命、楽しそうにしてくれた。

ロシアとロシア語圏に関わってきた彼らの言語体験の話が沢山あって、それはどれも優劣つけ難く、その中には私のロシア語とロシア語圏をめぐる大切な思い出もたくさん存在した。

どれも素晴らしくて、私が憧れる大先輩方みたいに超一流になれなくても、私と同世代の超一流の人たちみたいになれなくても、

私達はすでに豊かな言語体験を生きていて、それでよいのだという結論になった。カワイイみんな全員にベローチェのソフトクリームをごちそうしてあげればよかった。

というわけでもしまたロシア語を続けるか悩むようなことがあったら、『パスポート露和辞典』(白水社)の単語を全部覚えてから、また続けるか決めればいっか、と思った。苦笑。

ロシア語とロシア語圏をめぐる世界の話ができることがあんなに嬉しそうな方たちを私は何年も見ていなかったように思う。

友人が迎えに来てくれて、プリンを食べながら、私が答えのない世界の住人だった頃の記憶の話を聞いてくれた。

彼が迎えに行ってくれて、仕事を終えた若い子たちが集まってくれた。若い子たちはすごく喜んで自分の言語体験をたくさん話してくれた。

だからもうちょっと、がんばろっと。

楽しい時間が永久に続けばいいのに。


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友人にシュフラトという人がいて、彼の旅チャンネル、Shuhrat Voyager。

彼とはウズベキスタンでの旅行中に、たしかサマルカンドからタシケントへの特急列車の中で知り合った。私と同い年。彼は主にウズベキスタンの古都ブハラでガイドの仕事をしている。





ちなみにこのチャンネル内、日本旅行版は私がたまに撮影のビデオを持ったり、松屋で牛丼を一緒に食べたりしてた。

動画はどうもウズベク語をしゃべっているらしいのだけれども、彼はロシア語日本語英語ウズベク語、その他カザフ語など中央アジアの言語(沢山聞いたけれど忘れてしまった)が堪能なのでせめてロシア語で字幕をつけてほしい。本人にリクエストしようかしらと思う。



某カレー屋さんに行く。
久しぶり、というか学生時代以来○年ぶりに行ったらすごいメニューが増えていて、当時よく食べていたスモールカレーがすぐ見当たらず、(後でもぐもぐしながらメニューをよく見たらあった)
お店の人に聞いたらお子さまカレーも、年齢制限なしで大人もたのんで良いらしい、との事でお子さまカレーを頼むことにした。

お子さまカレーのハンバーグつきで、セットの飲み物はウーロン茶で、あとゼリーはつけなくていいです。
というところまで注文したら、店員さんに、
「ぐみからむねがつきますが、どうしますか」と聞かれた。
2回聞き直した。『ぐみからむね』?
「(『ぐみ』、『からむね』 ってなに?)」
一瞬、鶏の胸肉か何かかと思った。
(※最近サラダチキンばかり食べている。)

音は聞き取れても意味がわからなくて、
多分店員さんも日本語ネイティブの発音で、
3回目ぐらいでやっと、お子さまカレーだからお菓子のグミかラムネがさらにサービスでつくらしいということが理解できた。
まずメニューにデフォルトでゼリーと飲み物(リンゴジュースかウーロン茶etc.) がついてくるのになんて親切なんだろう。

最近外国語の通訳翻訳というモンダイについて考えていたけど、グミ・ラムネという単語は日常から離れてお年頃的にだいぶ久しく、母語でも日常で訓練して使っていないと聞き取れないらしい。

こっちはお子さまカレーのチキンナゲットバージョン、ゼリーつき。色々ついてて結構お腹にたまる。

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3月28日にYoutube上で行われた東京大学の沼野充義先生(ロシア文学)の最終&最新講義を見直していたら、

ニブフという民族の作家の方の回想のビデオが出てきて、

そこで自分の言語「ニブフ語」が禁止された記憶を語っておられた。(映像中1時間12分ごろ〜)

そこで「海獣狩猟をしている遠い村の同級生」、という登場人物があり、椎名誠さんの『極北の狩人』と繋がった。

シーナさんの極北のドキュメンタリーの中で、陸の狩人の少年を海の海獣狩猟の取材に同行させ(というか少年がついていきたいと望んだんだと思われる)、海の狩りに連れて行くというシーンがある。

沼野充義先生最終講義(東京大学教授)最終講義「チェーホフとサハリンの美しいニヴフ人――村上春樹、大江健三郎からサンギまで」
https://youtu.be/R4pZueSRP0g

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今夜この後モスクワと中継がつながることになった。あるいは夕方のサンクトペテルブルグかもしれない。オンライン飲み会。

昔飯田橋で働いていて、有楽町線のメトロの改札前に貼られていた「成田-モスクワ直行便」のアエロフロートか、JALの広告をぼんやり見ていた。モスクワという響きは当時の自分にとってものすごい憧れで、職場の人には内緒でロシア語の学校に通い始めた頃で、あの頃はそこにどうやったら行けるのか、見当もつかなかった。



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記憶にあるかぎりわたしは三歳頃から「あいうえお」
の練習をしていて、
洗濯物をほす母の邪魔をして『あいうえお、やろう』と
文字の絵本をもっていった
ーーー
言葉っていうのは、人間っていうのは非常におもしろい
ぜったいに抽象的な人間っていうのはいないんですね
必ずどっかの国に生まれて
どこかの言葉で世界を認知したり人々とコミュニケーションしていくわけですよね
抽象的な人類の言葉ってないんです
それぞれみんな違うところで育つのに
違う言葉でしゃべりながらお互いわかりあえるっていうのは
人間っていうのは非常に類的存在、同じ種なんだなとおもいます
(米原万里)

「世界わが心の旅 プラハ 4つの国の同級生 米原万里 (3)」より


ーーー
ほんとうに、母のおかげで、
日本語が理解できて、
操れてほんとうによかったとおもう
よくわからない外国語、よく操れないロシア語でロシアでくらす、
わたしをとりまくロシア語での世界認知の不安定さが、
わたしの知っているほかの言語においてもそうだったとしたら、日本語でもそんな不安定だったら、
わたしは不安すぎて孤独死してしまうとおもう。
『ことばのべんきょう』(かこさとし)

(2016.2)

嘘つきアーニャの真っ赤な真実 (角川文庫)
米原 万里
角川学芸出版
2004-06-25

先日、ロシア語仲間の男の子(一回り年下)と歩いてたら全てのドアを先に通してくれて、全てのエスカレーターを先に乗せてくれて、
都内でこの経験は大変に大変にもの珍しく、
お姉さんはとてもうろたえた。

なにせロシアのショッピングモールとかで中央アジア系と思われる知らない殿方たちが命を懸ける勢いでドアを開けて私が通りすぎるのを待っててくれる経験が多数あるので、
東京でさりげなくそうしてくれてたとしてもお姉さんは意外にちゃんと気づく。
どうもありがとう。

今日は、とある歴史上の人物について、仕事中に何人かに電話をかけるという、不思議な一日だった。すごく話したいのだけど、ここには書けないこのもどかしさ。次に私に会う人、聞いてやってください。

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