カテゴリ: ことば

最近、原稿を書く仕事をしている。

毎週綱渡りの締め切りで、土曜になるとだいたい朝ロシア語の授業の予習をしていなくて、そのあと学校にいって、でも先生は同時通訳の方なのでたとえ出来が悪くとも予習をしていませんだなんて口が裂けても言えないので、なんとか予習して、

そのあとロシア語の授業に出て、ぐったりして家に帰ってきてヒイヒイ言いながら書いている。

このあいだは「カップルで泊まりたい超高級ホテル」特集で砂糖菓子みたいなテーマだなあと思って、そういうのいったことないし、あまり興味がないわけだけれども、石油王とかお若いひととかとお付き合いすればそういうこともあるのだろうか。

それで思い返してみたら、私、中学の卒業文集に椎名誠さんみたいになりたいと書いた。旅行エッセイ『パタゴニア』がすごく好きだった。

大学時代に同時通訳でエッセイストだった米原万里さんの本『嘘つきアーニャの真っ赤な真実』『ガセネッタ&シモネッタ』に衝撃を受けた。そういう(ロシア語力はともかくも)文章を書ける人になりたいからロシア語をはじめて今も続けている。

だから目の前のことは結構大変なのだけれども、よくよく思い返して考えてみたら前から望んでいた仕事が気が付いたら出来るようになっていた。

ロシアにいたころは原稿費ゼロでロシア語の翻訳記事を載せてもらっていて(編集の人に文章指導料と相殺と説明された)、いろんなことが不安で仕方なかった。けれども結局それも、今の仕事をいただく上で自分をプレゼンする際の貴重な実績資料となっている。

その頃と比べてもまさか文章を書いてお金がもらえるようになるだなんて思ってもいなかった。原稿料をいただけるようになったのでプロにいつの間にかなっていたわけである。

瞑想をしていると10時間かかる仕事が1時間でばっとできるようになる、と師匠が仰って、なんだかんだで毎回締め切りもなんとかなってしまうので、ちょっと驚く。何時に寝ても、朝6時半に絶対目が覚めるようになった。

今日は1本、特集を書いた。あと今日の夜と明日の昼間はとある食べ物の特集を書く。
週5日の満員電車もないし、打刻(タイムカード)もないし、そう思うと幸せな生活なんだとおもう。いろいろかいたけど、めざすところはミールのカトリ先生みたいな笑顔のオトナになりたい、多喜子先生みたいに凛とした美しい女性になりたい。というただそれだけなのだったりする。

ブハラのカラーンモスクは世界で一番好きな場所だと思っていた。

灼熱の真夏に、なぜか夜行列車で行って、暑くて暑くて死ぬかと思った。8月のウズベキスタンが、わたしにとってのはじめての旧ソ連圏だった。

列車のおなじコンパートメントのおじさんたちは、私にチャイを沢山注いでくれた。



山手線でロシア語に近い言葉をしゃべっている老夫婦がいらした。

どこから来たの、とロシア語できいたら「僕たちはロシア語は話せない」と言われた。でもロシア語をしゃべったことは理解してもらえて、ロシア語と彼らのことばが近しく聞こえたから声をかけずにはいられなかったことは理解してもらえた。

ポーランドの夫婦だそうだ。

クラコフに行ったことがある、といったら、僕たちはワルシャワだよ、と英語で会話は続いた。

「why you speak russian?」

「i ,,, в инстытуте русского языка ..」突然英語は喋れないのである。

イケブクロで降りるそうだ。

日本の地図は、通りに名前がついていないがないからさっぱりわからない、そうだ。согласно.

それが土曜に上野に急いで向かっていたときの話で、その日は早朝から予習が終わらなくて朝からヨガに行ってその後授業にいって寒くてくたくたで、急がないと博物館はしまっちゃうし、その話を巨大なカニの標本を見ながら空の人にしたら「電車で声をかけるんですか」、と言われた。

そういうチームとか和を大事にしている人たちからみたら、変な女なんだと思う。でもけっこう前に、それはOLをやめようと思った年の夏休みに、人様はともかく、わたし自身はそういう生き方はしないことにきめていた。

空の先輩とまた喋りたいのだけれども、ちょっと静岡は遠いいなあ、と思っている次第で、やっぱりキエフにふらりと飛べばよかった。









“これだけはロシアの方が優れていると切実に思ったこと”として、“ロシア語通訳として(米原万里さんが)、多くの亡命音楽家や舞踏家に接して、望郷の思いに身を焦がす彼らからしばしば涙ながらに打ち明けられた”こと。

“「西側に来て一番辛かったこと、ああこれだけはロシアのほうが優れていると切実に思ったことがあるの。それはね、才能に対する考え方の違い。西側では才能は個人の持ち物なのよ、ロシアでは皆の宝なのに。だからこちらでは才能ある者を妬み引きずり下ろそうとする人が多すぎる。ロシアでは、才能がある者は、無条件に愛され、みなが支えてくれたのに」”

“ソビエト学校の教師たちは、教え子の才能を発見すると我を忘れて大騒ぎする癖があった。嬉しくて嬉しくてその喜びをひとりで抱えきれなくなって、同僚や生徒たちを巻き込みたがる”

“もちろん、他の生徒たちにもまたたくまに喜びは伝染して、そういう恵まれた才能に巡り会えた心から幸せに思った”



— 嘘つきアーニャの真っ赤な真実 / 米原 万里

今日はことばをめぐるエッセイ。


■親戚の外国語
ロシア語が多少わかる。意を決してロシア語の勉強を始めて結構な年数がたっているのだけれどそのわりにはわからない。

わたしのロシア語の恩師は非常に情熱的で美しく、そしてときに激しいので私はときに泣きながら、語学学校に通っていた。そういう激しい記憶があるので、外国語の学習って人によっては楽しいものかもしれないけれど(小学生の時に通っていた英会話スクールはとてもたのしかった)、わたしの場合、ロシア語に対しては、美しくて苦しい思い出が多い。いまもとても苦しい。通訳、翻訳のたまごのような仕事を時々するのでよく英語と勘違いされるのだが、ロシア語である。最近なんとなく、これを何かしら仕事のきっかけにできるような光が見えてきたような気もするし、その一方でタマゴどころか自分のロシア語についてまだ未確認生命体のような気もするし、やっぱり道は果てしなくとおい。



ポーランドにいた。ポーランドの町の人はポーランド語を話すのだけど、なんとなくロシア語に似ている。

「夏」「くつ」「映画」「通り」「キノコ」「いいですよ」「ダメです」というのがロシア語そっくりの音だ。つづりを見てもわかる。名所旧跡の観光というより、町の文字をぼんやり眺めて萌えているうちに一日が過ぎてしまう。

コンビニみたいな店で店員さんが「ドアを閉めてください」とか叫んでいたりすると、もうそっくりで、ポーランド語が分からなくても理解できる。

ワルシャワの鉄道駅の構内アナウンスで「不審なものがありましたら係員にお知らせください、よい旅を!」とかポーランド語で言っていると、これもなんとなくわかった。



■なんとなくわかりあう
友人のカーチャ(ロシア人女性)がモルドバにバカンスに行っていた。Airbnbで家を借りて、彼女の家族、彼女の友達家族、合計6人で数週間過ごしたそう。

滞在中、彼女はよく、現地の人に町で道をきかれたという。病院はどこですか、とか。病院は彼女の滞在先の隣だったから、彼女も答えられる質問だった。


もちろん彼女もモルドバの言葉はわからないのだけれど、病院という単語はなんとなくわかるらしいのでカーチャはロシア語で答える。そうすると、なんとなく、音が似ているので、モルドバ人の相手の人も理解し、その場が解決するそうだ。

ポーランドの町の若い人は英語がわかる人が多い。年配の方はロシア語がわかる人が多いようだ。ホステルのフロントのお姉さんはとてもとても親切なひとだった。しかしポーランド語話者であり、ロシア語も英語もあまりわからない様子だったけれど、わからないなりに彼女は多少ロシア語も英語もわかるので、なんとかなった。



■わからないけどわかりあう
さて私は英語も苦手だ。通訳のタマゴを名乗っておきながら、苦手だ、と何も堂々と叫ばなくてもいいのだけれど、ロシア語を数日しゃべっていると英語が喋れなくなり、その逆もしかり。ロシア語だけ何日も読んでいればロシア語が喋れなくなり、喋っていると読めなくなる。単純に修業が足りないんだと思う。

先日、記事の執筆の関係で、某雑誌のロシア語版の記事を訳してだしたら、ついでに英語版もチェックして頂戴、と上司に言われた。しかしとても上司には言えなかったのだが、その日の私はnowとhowの違いすらわからないレベルだった。だって形が似てるじゃない。東京の地下鉄で先日、人様のTシャツにeveryone って書いてあって、エブリオネってなんだっけ、と数十分悩んだ。その後英語の記事を必死に読んで、(おそらく無事に)納品した。後日知ったことだがその上司も英語を相当努力して勉強していたので、下手に愚痴らなくてほんとうによかった。

ポーランドでの話に戻る。この町ではなにかを話さないと生きていけないので、英語とロシア語ちゃんぽんの怪しい言葉をしゃべる。

なんとなく、通じる。そしてわからないなりに、いろいろ親切にしてもらえて、わからないなりに、なんとかなる。

ポーランドの田舎町で友達がバス車内で私を待っていてくれて、でも満席だからバスは発車しそうで、私たちが引き剥がされそうになったときも、運転手さんに「友達が待っているんです!!」とロシア語で叫んだらなんとか入れてもらえた。

ポーランドの田舎町で私が怪しい言葉をしゃべっても、店の店員さんはだれも動じない。親切になんとかしてくれる。自分が意を決してロシア語か英語でえいっと口をひらいてはじめて、キミ英語しゃべれる?と聞かれたり、英語のできる店員さんを、わざわざつれてきたり、してもらえるのだ。コミュニケーションの勇気をさぼってはいけない。

そういうわけでその町で私はノートパソコンを買ったりと、旅先にしては結構大きな買い物もしたし、どっぷりすごしていたのだけれど、トラブルは何も起こらなかった。居心地がよすぎる。



■ことばへの潔癖さ
友人のロシア人女性、サーシャが5月に日本に旅行に行った。彼女は日本語を勉強していて、ひらがながよめて、日本語であいさつができる。

元気に楽しく日本で2週間過ごして、帰ってきた後、感想をきいたら、こんなことをいっていた。

「日本の人は、英語で道を聞くと、指をさして、ぱっと、逃げてしまう。日本語できくと、手をとって、わかる場所までわざわざつれていってくれた」

思うに日本の人って、自分もふくめ、外国語にたいして、ちょっと潔癖すぎるかもしれない。彼女が英語できいても、指をさせるぐらいに質問が理解できるなら、手をとってつれていってあげたらいいのに。

英語ぐらいできなければ。

というフレーズを時々聞くが、私にはこれがとても暴力的に聞こえる。語族の違う言語を、もともとマルチリンガルでもない日本人がそんなに簡単に身に着けられるはずない。自腹で本を買ったり、自分で地道に単語を覚えたり、まいにち地道にラジオ講座を聞いたり、ブツブツ発音して、たくさんの時間を投じる必要がある。

ぜんぶわからないけれどちょっとわかる、というのも楽しい。そして通じあえる。それでもいいじゃないか。できない自分を責めてばかりいたが、そういう自分も、ポーランドのおかげで、ちょっと許せるようになったかもしれない。

7f3d7719.jpgたまには何かかいてみます。今年の8月は4年ぶりに、沢山海の外に出てきました。月の半分は外にいっぱい行ってきました。ほんとうにたのしかった。日本語でも英語でもない場所で世界をのぞかせてもらうのが、こんなに楽しいだなんでしりませんでした。私をウズベキスタンまで飛ぶ勇気をくださったk先生、わたしを連れて行ってくれたHさん、出会った皆さん、ほんとうにほんとうにみなさんありがとうございました。お勤めして、サラリーガールして、4年目。事故で4年の半分はたいして動けなかったけれど、最近になってやっとちょっとずつ融通が利くようになり、いろんな物件を動かして、そしてちょっとずつ苦しくなってきました。恩師S先生はよく私に巫女の素質がある、とおっしゃっていましたが、妙な勘ばっかりするどくて見えるようで何も見えない、勘なんてなんにもやくにたたない自分。4年前、鈴木先生が、生徒1人しかいない文化人類学の授業で、卒業間際、「家族の崩壊、企業による地球の破壊、人間の生き方としてこれでいいのか」っておっしゃていました。一年前の夏、
わたしのかわいいおじいちゃんが病院でしわしわになって死んでいって、真っ黒な服を着た一族に見送られて、そのあとすぐにS先生と行ったバリで、金のハリボテに乗せられた美しいお葬式を見て、沢山の沢山の裸足で目をキラキラさせて走り回るかわいい子供たちに囲まれて、バリの王族に嫁いだ日本人の女性に会いました。当時好きだったひとのことをすこし。死後に「おじいちゃんは病院で苦しかったかもしれないから、かわいそうだなんていったら失礼だ、ひとがしんだらつよくならなきゃ」って言われて、でも彼は運転しながら電話越しに泣くあたしに深呼吸の仕方を教えてくれて、私の誕生日は4月末なのに、3年近くにいたのにそれすら覚えてなくて、3月の地震直後に今度次いつあえるかわかんないから誕生日、といって去り際にネックレスの箱ををぽっけに押し込んでくれて、言葉が足りなくて超不器用で、でも凄くただしくものをみる彼が大好きだったけれど、地震があってから毎週東北にほぼ徹夜状態で飛んでいく彼を理解できず、お金を全部そっちに使う彼を理解できず、ちゃんと
おうちをつくりたくて、家をつくりたくて、こどもうみたくて、彼はみんなを元気にするために命を懸けて、夜中まで仕事をしているのに、ちっとも理解せずにそういう自分の欲を優先した自分がもう最悪で仕方なかった。会期の終わりにあわてて見に行った米原万里展で「人はコミュニケーションを求めてやまない動物だから」って書いてあって、由比ヶ浜で一人で見た空がすっごい綺麗で、なんだか悲しい気分で結婚式に行ったらちゃんと話ができる友達が何人かできて、ああ、それでよかったのかな、って思った。結局、私、日本語もほとんどしゃべらないものの、やっぱりそれでよかったのかな、って。ことば、こみゅにけーしょん、家と家族。出版から離れていくことになるかもしれないけれど、どこで誰とどう生きても、あたしはそこから離れては生きられないのだと思う。もうすこし自由に、もうすこしやわらかく、もうすこししなやかに。かなうならかたつむりの中に入って生きられればどんなに楽かと思うけれど、ことばって生きてるし、ことばをつむいだ思想ってひとのいのちを動か
すから。みんなありがとう。

珈琲の粉(大さじ1)
砂糖 60〜80g
小麦粉 100グラム
卵 中1個
バター 100グラム
バニラオイル 3滴
あれば胡桃とか てきとう

バターからどんどんまぜていく 最後にごむべらで小麦粉をまぜる
→150度(ファン付きの場合)で焼く。15分くらい。
30〜40個くらいできる。わーい。


で、これをお弁当箱につめてもっていったら
何人集まるかわからなかったからクッキーにしようとおもって
結局二人だったので、ちょっとずつ小出しにしていたら
ぱくぱくぱくぱく
喋りながらこれおいしいね、
って食べてくれて、
ああ、よかった。

崩壊。
からだも。目に見えないそれも。
タカがはずれた、というのはこういうことを言うのでしょう。
自分でも自分の思考がわけわかりません。
目に見えないものなので修理するのには時間がかかるよ、
とキイロイトリの修理屋さんがめがねのおくで言いました。
だそうです。
時間をかけねばならないのはわかるのですが
ちょっと疲れました。
はやくこれをすっとばして90歳くらいのおばあちゃんになりたいです。
でもこれを修復するなり乗り越えるなりしないと、あたしは罰としてかわいいおばあちゃんになれません。
ごめんなさい。
ここに来てまたゆくひとに告げることば。
ひととひとは弧をえがいて交わりやがてまた彗星のようにどこかへ流れてゆきます。
そのかなしみを伝えようと、
あたしのなかのよいものも、きたないものも、ぜんぶぜんぶうけとめようとしてくれたその人にカードを作ってみました。
諳んじて久しい住所を記し、いつもの鳥の切手を貼って、
明日ポストに入れるつもりです。
しかし心身弱りきっているらしいそのひとに、そのことばまで届くかどうか、もうわかりません。
だいじなところばかり言葉が足りなくて、ごめんなさい。

右手にペンを持っていると安心する。
それがボールペンではなくインクのであるならなおさら。
出かけるときは書くものを一本でもかばんに入れておかないと、どきどきして仕方がない。
先日試験の日に筆箱を忘れて、100円雑貨屋で買った三本百円の黒色、
これが意外にも気持ちよい。
自分で自分の限界を設定することは容易にできるし、文章なんてもう書けないわって思うことも簡単だけど、
ペンを持つと安心してしまう自分がいて、
なんでもいい。聞いている音楽とかラジオから流れだした言葉とか、ふと思い出したことばのまとまりとか、
そういうのを分厚いノートに書いておいて、そうしてぱたんと閉じたとき
あたしはじぶんが安堵していることに気付く。
じぶんの言葉ではなかったけれど、そこにじぶんが刻みつけたというその行為に。

春がそこまで来た
秋から冬に代わったらずっとそのままだと思っていたのに
この間まで根っこが出ないと嘆いていたはずなのに、きちんと花が咲いてしまった
10年後も20年後も、私はそんなことを言っているのかもしれない
1ヶ月ほど、外国に行ってくる
日本から逃げたかったから
日常の自分への煩わしさから逃げたかったから、あらゆるすべてから逃げたかったから。
でもどうしようもないほどにあらゆる言葉が話せなくて、
こんな状態のあたしは果たして一人になって大丈夫なのだろうか。なってしまうのだろうか。
手を触れられただけで泣いてしまう私は、それまでどれだけ支えてもらっていたのかすっかり忘れてしまっていた。
九官鳥
閑古鳥
鳥が啼く
猫が鳴く。

日記。

ウサギが描けない。
べつに悩みじゃないけどね。
ここのところ喫茶店で鉛筆を持つと
ウサギのイラストばっかり描いている
唇はイプシロン(ε)
オレンジ系艶出しグロスでパワー全開、みたいな。

バスで寝過ごし
帰り道に地元の盆踊りをふらふらとして
家に帰ってきたら本棚(天井近くまである)からハードカバーの本がばっさばっさ落ちていて、机に積んであったジェンダーの本とか差異と民族、系のタイトルの本がばさばさと床に散乱していて、何かと思った

バナナワニ園 に行きたい

そういえば昨日買い物をした。
お店のお姉さんが私のことを覚えてくれていたのが嬉しくて、
化粧水とかつっついて二人でキャッキャ遊んだ。
買ったものは
美容液とか化粧水とかっていうカテゴリーに入るんだろうけど
そういう単語使いたくない
なんか生活感出る気がする
恋人の前では歯ブラシとかトイレットペーパーとかの買い物したくないのと一緒
ならばなんて書けばいいのか
「湯あがりにつけるやつ」。笑

知らない人のブログとかで
「夏休みにしたいこと」
を書き出すのがびみょうに流行。
遠くに行くのもいいけれど
夏は○○と○×と××(←すべて海外の地名)にいってきます、
って複数の羅列自慢気に書かれるとちょっと醒める
(私がひがんでいるから勝手にそう見えるのだろうか)。
私もそうだけどね。

遠くに行くだけの財力と行動力を語るのじゃなくて
(飛行機乗るんだから金も体力もいるのあたりまえじゃん)

そこで得たなにか、とか
時間が止まったときの話、とか
過ごした時間の感覚、とか

そういうのに飢えているな、とおもう
目的地とか何日間行くか、ってとても二次的なもので。

と他人を批判しているようだけど
白状するとどこにいっても何も変わらない、
何の感覚も得られないような自分がすごく怖くて、
何も変わらないのは逆に言えば
どこに行っても元気であたしらしくがんばれる
ということなんだろうけれど(byS)
でもあれだけ一人でフラフラいたのに
なんもわからなくて
続けるべきか、辞めるべきか。
続けるにしても今はその時期じゃない
まーだまだ。

♪あーぶく立った煮え立った...

旅行先で会う日本人の男子学生に
今やっていることを
「旅」
と表現されると、
なんか嫌悪感を覚える。

それちがうでしょう。って
ことばに与えるイメージの問題かしら
うーん
まとまらん

あ、また地震


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