カテゴリ: ポーランド


ハガキをわりと書く方だと思う。

最近はハガキの代わりに写真つきの近況報告を兼ねたメールやチャットを、ぽうんと送る。


わたしの場合ハガキをかく場合は旅先から書くので、
基本的に返事は来ない。



もらった方はちゃんとそのことを覚えていらしてて、
半年後とか忘れた頃に私が電話を差し上げたり、忘年会などお目にかかれるタイミングをつくると、
あのときはハガキをありがとう、
とお礼の言葉や、何かをいただける。
私の方はたいてい、出したことを忘れている。

それはご著書や翻訳本だったり、
先生のラジオ講座のCDだったり、
あるいはその時にわたしが必要としている言葉だったりする。


迷った時はだいたい恩師や10歳以上、年の離れた人に、近況報告のフリをして、メールを書く。

先日、わたしの語学の先生、

カトリ先生に近況報告的なメッセージをメールでかいた。

先生はお返事に、
若い頃、ご自身は、
とあるピアニストの追っかけをしていて、
収入の全部を費やしていた、とかいてくださった。

長く存じ上げているが、
そんな話ははじめて伺った。



自分はほんとうに欲に正直な人間で、
行きたい。
と一度思ってしまうと、
行かなきゃおさまらない。

昨日もブラチスラバの宿で朝5時に目が覚めてしまい
以前いったことのあるポーランドのクラコフに、
どうしても行きたくなってしまった。

計算したら片道7時間。
ルートは上の写真のとおり。
後の行程を考えたら行ったとしても半日しかいられない。

とある日本人のツイートで
「30年ぶりに、クラコフに来ました」というのを読んだ。

日本とクラコフって、例えるならばそれくらい遠いのである。
次にわたしが訪れるのが30年後だなんて、耐えられない。

こんなに欲に忠実な自分、大丈夫なのだろうか。





わたしの祖母の名言は

「前へ前へと進みなさい」

2、3日悩んでいたのが馬鹿みたいで、
行ってしまえば7時間なんてあっという間だった。
3、4回列車を乗り換えたと思うけれど、
乗り換え回数なんて昨日の出来事なのにもう覚えていない。

結局、クラコフの行きたかった教会に、その日の午後、行って、
夜のミサにも参加した。

翌朝も帰る前によったほうがいい気がして
宿のチェックアウトのあとに寄ったら、
教会内部は朝日の光で素晴らしい輝きを放っていた。

そういう自分でいいのである、
というのを先生のメールを思い出して、思った。

宿からの眺め。
この教会にどうしてももう一度行きたかった。


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そういえば最近行った負の世界遺産、アウシュビッツとかチェルノブイリとかの写真がいっぱいデータであるけれど、まだ語れないので出してない。

ポーランド・クラコフにいた

通りがかりの教会にいって

ぼうっと座っていたら、

19時になった

皆さん続々と集まって、ミサがはじまり

バギーをひいたわかいカップルも

歩けるかギリギリの老人も 当然のように集まり、いのる。

1日の中で祈りの時間を当然のようにつくるって すごいこと

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アウシュビッツ収容所とビルケナウ収容所の見学に行ってきた。

6時間のツアーに参加した。

午前中アウシュビッツ3時間、午後ビルケナウ収容所3時間。

英語のガイドさんが20人弱のグループを連れて回る。



英語のツアーだったので私は20パーセントぐらいしか話を聞いてなくて(聞けてなくて)

時々我に返ってガイドさんの話を注意深く聞くと結構生々しい具体例とか、

ガイドさんがガイドの仕事をする中で独自に集めた、ここに見学に来たヨーロッパ人の親戚の被害者の事例の話とかをしていた

日本語で聞いたらもっとつらかったとおもう

博物館として展示物化、客観化していて、

時々思うがヨーロッパの展示ってアジアや原爆ドームみたいに生々しくない

70年以上の年月と毎日まいにち、たくさんのひとの訪問で

じわじわ、ずーんとくるけれど

場はけっこう浄化されていた気がする。

不思議なことに、波動がよかった(そうじゃない場所もあったけれど)。

ものすごく、晴れていた。

剃られた髪の山とか毒ガスの空き缶とかは一箇所しか展示なくて、もちろん撮影禁止。

あとガス室内も、撮影禁止 。

だからほぼ家畜小屋みたいな建物内部と当時の写真、犠牲者の写真、犠牲者のリスト。

そこで知り合った日本人観光客の方とも話したけれど

カンボジアのポルポト政権の名残りとかベトナムのホーチミン市の展示のほうがよっぽど生々しかった。

結構生々しいもの取り去ってて

しかも私自身は中学生時代から「映像の20世紀」(NHK)を見まくっていたのであまりつらくなかった。

前後数日あまり動けなかったけれど、これはアウシュビッツのせいなのか、満月のせいなのかわからない。

だから一番つらくて、ずーんときたのは、

犠牲者のひとたちが収容されるまえに撮ってカバンにいれてきた、

普通の幸せだった頃の、家庭の集合写真とか、結婚式の写真とか、普通の生活を記録したセピアのフィルム。

写真はビルケナウ収容所。ひかりがおりていた。

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